えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

犬の話

Histoire d'un chien, 1881
ゴーロワ6月2日。シュミット版初収録。
後に(ジル・ブラース、1883年3月20日)「マドモワゼル・ココット」として書きなおされるもの。

 あらゆる新聞が、動物の「避難所」を儲けたいという動物愛護協会の呼びかけに応えている。そこには一種の救済院が出来るだろうし、その避難所では、行政が用意する縛り首の代わりに、主人のない哀れな犬たちが食べ物と逃げ場を見出すだろう。
(中略)私もある捨て犬の話を語りたいけれど、平凡で醜く、粗野な外見の犬の話である。この話は、まったく単純なもので、あらゆる点で本当のものなのだ。
(1巻314ページ)

 あるお屋敷の御者フランソワが一匹の痩せた雌犬を拾って飼うことになる。
ところがこの犬、「雌犬の中でももっとも淫乱」なものに違いなく、そこら中を野良犬がうろうろ
するは、ひっきりなしに子犬を産むは、果てはぶくぶくに太りだす。
フランソワは犬をココット(売春婦)と名づけ、それでも溺愛する。
が主人もついに我慢できず、犬を捨てろとフランソワに命じる。
誰も貰い手はなく、遠くに捨てても戻ってくるので、やむなく川に投げることになる。
ある朝、彼はココットの首に石を結びつけ、十遍もためらった後でセーヌ河に投げる。
一か月ばかり、フランソワはココットの思い出に取りつかれ病に臥す。
ようやく回復し、主人とともにルーアン近郊に避暑に出かけるが、ある朝、
フランソワは水浴の途中に、犬の死骸を見つけて近寄ると・・・。

 この物語の長所は一つだけである。この話は本当、全てが本当なのだ。六週間後に六十リューも離れた場所での、犬の死骸との奇妙な再会がなければ、恐らく私はこの話に目を留めもしなかっただろう。それというのも、毎日のように、行き場のない哀れな生き物たちを目にしているのだから。
 もしも動物愛護協会の計画がうまく行けば、川岸に打ち上げられたああいう遺骸を目にする機会も減ることだろう。
(318ページ)

冒頭は「生体解剖」に反対する動物愛護協会の声明が話題になっている。なんか百年前も後も
あんまり変わらない世の中だ。それはともかく、要するに時事ネタである。
虐待される動物というのは、モーパッサン作品のあちこちに出てくる。『女の一生』もそうだ。
が、やはり私の今の関心は結末の文にこそある。ここでは「本当」vraiであることが
改めて強調されている。
中身だけをとればこれは既に十分にモーパッサン(当たり前ながら)らしい作品に仕上がっている。
だが前後に挟まれる「書き手」=モーパッサンの存在が、(ここでもまた)コントをクロニックへ
と限りなく接近させてゆくのである。まるでこの時期のモーパッサン
純粋なコント(=フィクション)を新聞に掲載するのを忌避しているかのようでさえある。
そうでなければ、「書き手」がじかに声を発することもありえなかったはずだ。
(初めからコントと見なして読む研究者の多くは、こういう問題に決して目を留めないけども。)
もちろん、本当に「本当の話」だった可能性はあるけれど、しかしモーパッサン
明らかに脚色・誇張を加えて話を面白くしているのは確かだし(この辺がまた事情を複雑にしている)、
結局のところ事実の有無は問題ではない(確認しようもないし)。
そうではなく「これは本当の話ですよ」と執拗なまでに強調するその語り方そのものが特殊なのだ。
繰り返しになるけれど、それは新聞の読者を対象としている故の配慮である。
誰が読むか。読者は何を求めているのか。
モーパッサンがあっという間に人気作家になった理由の一端は、間違いなくその配慮の内にあるだろう。


話代わって、これを読んで驚かされるのは、当時は野良犬がうろうろしていたらしい
という事実だ。実にまったく「畜犬談」を思い出させるような話である。くわばらくわばら。