えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ある狂人の手紙

Lettre d'un fou, 1885
ジル・ブラース、2月17日、モーフリニューズ。

 親愛なる先生、先生にお任せしいたします。お気に召すようにしてください。
 率直に、私の奇妙な精神状態についてお話しますので、しばらくの間病院の世話を受けるほうが、このまま執拗に私を苛む幻覚と苦しみに囚われたままでいるよりもましでないかどうか、お考えいただきたいのです。
 以下が、私の魂の奇妙な病についての、長く正確な物語です。
(2巻461ページ)

 皆と同じように「目を開いたまま何も見ずに」人生を見てきた「私」は、モンテスキューの文章
「我々の身体機械に器官が一つ多いか少ないかすれば、我々の知性は異なったものとなるだろう」
によって開眼したという。実際、我々と外界とをつなぐ感覚器官は不完全なもので、その数も
五つに限られている。視覚や聴覚がいかに蓋然的かつ不完全なものであるかを述べた後、「私」は続ける。

 すなわち、もし我々の器官が少なければ、素晴らしくも奇妙な物事を知らないままでしょうし、もし器官が多ければ、我々の周りに、これまで確認する術がないが故に疑ってもみなかった、無限の別の事物を発見するでしょう。
 すなわち、「既知」についての判断において我々は誤っており、我々は未探索の「未知」にとりまかれているのです。
 すなわち、一切は不確かであり、異なった仕方で感知しうるのです。
 すべては偽りで、一切が可能であり、すべては疑わしいのです。
(463ページ)

 「私は未知のものに包まれている」と確信した「私」は、周囲の一切に恐怖を覚えるようになった。

 その時、私は恐怖を理解したのです。絶えず宇宙の秘密の発見に手が届くように思われました。
 私は感覚器官を研ぎ澄まし、刺激を与え、瞬間的にでも目に見えないものを認識しようと試みました。
(465ページ)

そうするうちに、ある晩、背後で床板が音を立てるのが聞こえ、振り返るが何も見えないという体験をし、
翌日の同じ時間に、同じ体験が繰り返された。
翌日、部屋中の明かりをつけた「私」は、同じ時刻を待ち構える。
同じように音がして、振りかえった「私」は、眼の前の鏡に自分の姿が映っていないのを目にした!

 私はそれを見たんです!
 もう一度目にすることはありませんでした。
 けれども私は絶えず待っています。そしてこの待機のうちに自分の頭がおかしくなるのを感じるのです。
 私は何時間も、幾晩も、何日も、何週間も、鏡の前であいつを捕まえるのを待っています。でも奴はもう現れません。
 あいつは私に見られたことを理解したのです。でも私は、自分がいつまでも、死ぬまでも自分が待ち続けるように、休みもなく、この鏡の前で、待ち伏せする猟師のように待ち続けるように思います。
 そしてこの鏡の内に、狂ったイメージ、怪物や、醜い死骸、あらゆる種類の恐ろしい動物、残忍な生物、狂人の精神にとりつくに違いないようなあらゆる本当らしくもない幻影を見るようになりました。


 以上が私の告白です、親愛なる先生。私はどうしたらいいのか教えてくださいますか?
原本と異同なし:モーフリニューズ
(466ページ)

結末は例のごとしで、これについてはもう詳述しない。
ある固定観念をつきつめた結果は狂気に逢着する。というモーパッサンのテーゼを示す
代表的な作品で、鏡の場面は後に『オルラ』(1886年短編:1887年中編)にそのまま引き継がれる
ことになる。という意味で正しく『オルラ』の前身というべき作でもある。
人間の感覚器官は不完全なものである、という認識もまた、オルラ誕生へと繋がってゆくものだけれど、
ここではタイトルがそのまま示すように、「未知の生命体」は「狂気」のもたらす「幻覚」として
扱われている。
けれど冒頭、結末の訴えは、そのまま読者に対してのそれでもあるわけで、文中にもある

 私は狂ってしまったのでしょうか?
 Suis-je devenu fou ? (464ページ)

の問いかけに、「狂気とは何か」の疑義がこめられている、と考えることもできるだろう。
それはすなわち「理性」と「狂気」の境界はどこにあるのか? という問いであり、
突き詰めれば「理性」そのものの確かさを疑問に付すことにつながるだろう。
「狂気」という謎を合理的に理解しようという実証主義的思潮が、つきつめれば
その前提となる理性を懐疑に付す点にまで至るということ。そこに現代の人間の置かれた
袋小路的な悲劇的状況があるということ。
今日、一般に「幻想小説」とくくられるモーパッサンの諸作品、その中で特に「狂気」を
主題とした作品の射程は以上のようなところにこそあった、
というようなことを、以前考え、論文にも書いたのだった。
Web Gallia - FrontPage
の43号所収論文(仏語)でありますが。
決定版『オルラ』は以上のような要件を前提にした上で、さらに物語作家モーパッサンの卓越した
思想と技法を考慮しなければ、その真の深さは理解できないのではなかろうか、
という話が論文のメインなのだけれど、その辺はあんまりうまく書けていない(と今になって思う)。
が、なんだか本題から逸れてしまったか。
本作品の結末(いろいろな幻影が見えだした)というところは、やや「やりすぎ」の感がなくもなく、
分かりやすい「狂気」に落ちつけてしまった恨みが残る(かもしれない)。話戻って、
「すなわち Donc」をたたみかけ、論理的に説得を重ねてゆきながら、
「目に見えないものを認識しようと試み」る、と繋がるところに非合理な要素 illogisme が滑り込まされて
いるところがミソである。ここで客観性は失われ、ロジックは主観的なものに横滑りし、
その後の展開につながるわけだけれども、そういうことはしつこく読み返した後でようやく分かることで、
一息に初読した時には、「なんじゃこりゃ」と思うわけである(多分ね)。そして読後に頭をひねらせれば
作者に一本。というものだ。
も一度戻って、結末の落ちのつけ方には、まだ作者の余裕が感じられる、ということでもあったりする。
その余裕がこの辺りから少しずつ失われてゆくように感じられるところに、
経年的にモーパッサンを読むことの悲痛さがありもする。