えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ルイ・ランベール

バルザック全集』第21巻、東京創元社、1975年所収の『ルイ・ランベール』水野亮 訳。
デシャルムはル・ポワトヴァン論にこの作品を挙げ、彼との類似を指摘しており、たぶんに空想が
混じっている感じではあるけれど、実はフロベールこそがルイ・ランベールの内に友人の姿を見ていた。
でもって「哲学的思想を突き詰めた挙句に狂ってしまう」という物語の原型として、いちおう
押さえておくべきかと思って、がんばって読んでみた。
実に全く難しい。というかぜんぜん分かりません。
プラトニック・ラブにのめりこんだ青年が、いざ実際に女性と付き合えるようになった結果
形而上的理想と性欲との葛藤の果てに破裂してもうた。
という風に主筋を要約すると身も蓋もないのである。
しかしそれ以外の部分は観念論の嵐でぜんぜんついていけないのだ。
困ったもんである。
バルザックにせよル・ポワトヴァンにせよ、霊肉の分離と葛藤という
プラトン以来の伝統的観念に強烈にしばられている、ということを私としては確認しておきたい。
霊は上、肉は下のヒエラルキーがそこには絶えずあるということが問題であり、
肉は穢れたものと考えられる。だから禁欲してなるべく肉体から離れるようにしなければいけない。
当然、誘惑するものとしての女性に対する蔑視が付随してくる(身勝手な話)。
キリスト教もずうっとこの話型を採用してきたわけである。
それはそうと、19世紀前半まではこの伝統的観念が根強く生きていたということを抜きに、
レアリスムのインパクトと大胆さと、それが呼び起した激しい反論は理解できない。
モーパッサンが(ある程度まで)自由に書くことができたのは、
先人の戦いあっての上のことだった。
時々がんばって苦手な(内緒)バルザックを読むと、50年の開きというものが実に広いというか
深いということをしみじみ感じる。この50年の開きのあいだには、その後の20世紀の100年間という、
19世紀末と今との距離よりも遠い、何か決定的な断絶があることを、いつも漠然とながら感じる。