えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ラジオ第2回

ノエル・ベナムー先生を招いて『ベラミ』のお話。聴き手のエントヴェンさんが冒頭で言うのは、
フランス人はコレージュ(中学)でモーパッサンを読まされすぎて、悪い思い出しか残っていない、
とりわけモーパッサンは簡単な作家という印象が残っているが、その偏見を修正するために、少なくとも
もう一度、モーパッサンを読み直す必要があるでしょう、ということ。
モーパッサンとはまあ、つまりそういう作家ではある。
話はまずフロベールモーパッサンの比較から始まるが、ベナムー先生はすかさず、
モーパッサンフロベールの影響を受けすぎているというのは誤解であると指摘。
『ベラミ』はモーパッサンの中でも完成度の高い作品であり、ジャーナリズムという自身の
知悉する世界に素材を得たものである。ところでベラミは「野心家」ではなく、彼は
手段を選ばぬ「出世主義者」であり、理念のない「日和見主義者」でもある。道徳を顧みない彼は
女性を誘惑し、他人を模倣し、金銭をかき集めて成り上がる。そのような彼の属性は「娼婦」のもの
そのものであると言えよう。その姿(卑劣さ)は実際の娼婦ラシェルの示す誠実さと対比されることでより
鮮明に浮かび上がる。注目すべきは鏡のシーンであり、デュロワは鏡に写った自分の姿を、とっさに自分と
認めることができないのであるが、自己が何者であるか、社会の中で自分の進むべきはどれかを分からない
彼を象徴する場面といえる。
『ベラミ』は風俗小説であり、作者自身のよく知るジャーナリズムの世界が舞台となっているが、デュロワは
ろくに記事を書くことも出来ない、本来知的世界に属さない人物である。そんな彼が階層を上り詰めてゆく
この物語は、ジャーナリズムの世界に対する「残酷な皮肉」を備えている。
モーパッサンの登場人物の名前はいつも「意味」を持っているということを挟んで、
この成り上がりの物語にはしかし絶えず死の影がさしていることが指摘される。興味深いのは
死という現実の存在は、かえってベラミの出世欲を昂進させることにつながるということ。
奥底では、彼は栄誉が束の間であることを知っているのだ。物語の最後には彼は栄華を極めたかに
見えるが、この結末は「開かれた」結末であり、彼は自らの失墜へと突き進んでゆくのである。
この世界においては誰もが交換可能であり、取り換えられるのであって、それはマドレーヌが次の
若手ジャーナリストを囲っていることにも窺われる。最後のお言葉はこうだ。

C'est un éternel commencement, et c'est, pour Maupassant, le fait que nous sommes rien en univers, en fait.
「それは永遠の繰り返しであり、それは実際のところ、モーパッサンにとっては、我々は世界において何物でもないということなのです。」

ということで、これまた暗いといえば暗い結末ではありました。
それにしてもベナムー先生はいい声をなさっていて得点高し。
女の一生』もそうだけれど、一見通俗的とも見える風俗小説が、しかしより深い読書にも耐えうる
二層三層の奥行の深さを備えているということを示唆しえた点でよい番組であったと思う。
ベナムー先生ありがとうでした。