最終回は比較文学博士号取得ながら(たぶん)文筆業のナディヌ・サチアを招いての
『オルラ』についてのお話。
ながら要約が難しいのは、微妙に話がかみ合ってない感じがあるからで、思うに
聴き手が物語内(「私」の理性は失われたのかどうか、とか)に重点を置くのに対し、
サチア氏は(伝記作者として当然ながら)作家(病気)とか時代(シャルコーの流行)とか
に力点を置くせいではないかと推察される。ファンタスティックに関してなら、
フォリオテック『オルラ』執筆のジョエル・マルリューが最も適任だったのに、
と思わなくもないけれど、それはまあよく。
冒頭の記述5月8日がフロベールの命日であり、セーヌ河沿いノルマンディーの白い家という舞台は
クロワッセのフロベールの家に他ならないという点から始まり、
サチアさんのお話で興味深くまた正当な見解であるのは、
冒頭の白い船、水と牛乳、鏡の場面、という白または透明の色、
同時に船の赤い旗から血のイメージから最後の火事まで、という赤の色という
連続に見られるように、いわばよく出来たテクストとして組み立てられていること、
優れた「語りの機械」machine narrative であるという指摘。
神経過敏と狂気とファンタスティックの隣接については、当時の精神医学的関心の的
であったことが語られ、エントーヴェンさんが「私」の理性のありよう云々を問題にするの
に対し、サチアさんはむしろ「テクストの戦略」の観点から答える。
既知と未知との境界に立つことで、読者を恐怖させることが、『オルラ』の戦略に他ならない。
物語のラストの引用の後、エントヴェンは「オルラ」とは死への恐怖のことではないかと問う。
Bien sûr, cette nouvelle qui commence à Croisset se termine sur le souvenir de deuil, pour moi biographe, sur le souvenir de deuil de Flaubert, bien sûr, dont Maupassant parlait constamment à ses amis la tristesse.
「もちろん、クロワッセで始まるこの小説は、喪の記憶で終わりを迎えるのですが、伝記作者の私にとっては、それはもちろんフロベールに対する服喪の記憶であって、モーパッサンは友人に向かって常にその悲しみを語っていたのです」
(実は引用の最後の言葉はちょっと自信なし。でもまあ。)
というわけでフロベール、モーパッサンにうまく話が戻ってきたところで終わりとなるのはさすが。
『オルラ』が単純に超自然を語ったものでも、あるいは狂気という精神医学的題材を扱っただけの
ものでもなく、最後まで両者の境界に留まることによって読者を混乱させる、というよく出来た
「語りの機械」であるという点に私は同意するものだ。そしてそのようなテクストは、モーパッサンの
全作品の中でも中編『オルラ』ただ一編であるという事実こそが、モーパッサン文学全体においてこの作品
を特異なものとしている。ということを私は言いたい。20編ないし30編ばかり数えられるモーパッサンの
いわゆる「幻想小説」の中で、この『オルラ』だけ(厳密に言えば「夜」という短編、そして晩年の
「誰ぞ知る」という作品も、それぞれ別の観点から突出してはいる)が特別であるのは、これがそれまでに
書かれた「幻想小説」の同時に総合であり超克であるからだ、と私は考える。
ま、私は考える、というだけの話ではあるのでそれはよく、
以上全五回、フランス・キュルチュールの「知識への新しい道」モーパッサン特集を
楽しく拝聴いたしました。
ちなみに、
Nadine Satiat, Maupassant, Flammarion, coll. "Grandes Biographies", 2003.
は何度も言うけど700頁の浩瀚な伝記であって、作品の引用から同時代の証言まで片っ端から
引用されているものすごい本であるが、しかしこんなもの一体誰が全部読めるのだ、
と正直思わないではない力作だ。