えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

花袋『東京の三十年』

忘れた頃に戻ってくる田山花袋のお話。
とにもかくにも『東京の三十年』、大正6(1917)年の中の「丸善の二階」は、
日本におけるモーパッサン受容には欠かすことのできない資料なのだ。
うむを言わずに読むべし、読むべし。
引用は『定本 花袋全集』第十五巻、昭和12年、臨川書店、平成6(1994)年、復刻版発行による。

 モウパツサンの名は、上田君の持つてゐた “Odd Number” といふ短篇集で始めて知り、つゞいて『ピエル、エ、ジアン』を日光の洋書店で買つたが、其時分はモウパツサンの如何なる作家であり、又いかなる位置にその名を置いてゐる作者であるかをも誰も知らなかつた。私なども、その短篇集、健全な短篇ばかりを選んだ其の書に由つて、唯、單に美しい戀愛を題材にした短篇を書く作者だとばかり思つてゐた。しかし、さうかうしてゐる中に、モウパツサンは單にさうした作家ではない。ドオデエなどとは非常に違ふ作者だといふことがわかつて來た。(563-564頁)

日光の話は「KとT」に出てきて、ここでも花袋は大騒ぎしている。
「もーぱっーさん・・・何だ、もうばアさんだ。もう婆さんはいやだね。」と独歩はからかったらしい。
それはそうと上田敏所蔵の「オッド・ナンバー」が日本に入って来たほぼ最初のモーパッサンというのは
以来定説となっており、花袋も二編ばかり翻訳をしている。独歩は「糸くず」を訳した。

 ある日、私は丸善の二階に行つた。そしていつものやうに、そこに備へられた大きな目次の書を借りてそれを飜してゐた。ふと、モウパツサンの『短篇集』が十册か十二册、安いセリースで出版されてあるのを發見した。何とも言はれず嬉しかつた。私は金のことなど考へずにすぐ註文した。(564頁)

十冊か十二冊なんかどっちやねん、と研究者を惑わした箇所。十一冊だ、というのが定説となっていたが、
どうやら十二冊あったらしい、という話は以前にもした。それはともかく、
これこそまさしく悪名高い「食後叢書」の登場だったのである。

 それの到着したのは、忘れもしない、三十六年の五月の十日頃であつた。私は其頃は博文館に入つて、『太平洋』を編輯してゐた。その日は雨が降つてゐたが、電話でそれを知らされると、もうゐても立つてもゐられなかつた。すぐに行つて取つて來なければ承知が出來なかつた。しかし、それにつけては、錢がない。受取つて來る錢がない。七八圓の金だが、それがない。さうかと言つて、月末まで待つてゐる氣にはなれない。仕方がないから、出版部へ行つて、時の部長U氏に泣附いて、『美文作法』を書く金の中から十圓前借をした。そして降り頻る雨をついて丸善へと出かけた。(同)

忘れもしないと言っておきながら、実は明治34年のこと。記憶とはまあいい加減なものである。
「それにつけては、銭がない。受け取って来る銭がない。」こういうのが花袋調であろう。
本人はいたって真面目でありながら、傍から見るとなんとも冴えないし貧乏ちいところ、
嘲笑を買ってしまう所以である。
しかしまあ興奮がよく伝わってくるのは本当だ。モーパッサンであろうとなかろうと、こういう気持ちは
私とて知らないわけでもないし、そういう本との出会いはやはり幸福なものだね。
どんどん行こう。

 安いセリースで、汚い本であつたけれど、それが何んなに私を喜ばしたであらう。ことに、この十二册の『短篇集』の日本での最初の讀者であり得るといふことが、堪らなく私を得意がらせた。私は撫でたりさすつたりした。
 それに、短篇が無限に澤山にそこに収められてあるのがうれしかつた。私は頁を切るのもまどろこしいやうな氣がして、それに讀耽つた。(564-565頁)

一読忘れられない「撫でたりさすったりした」。そんなこと、普通の人は書きませんよね。

 私の思想と眼と體とは、この十二册の『短篇集』に由つて、何んなに深い驚異に撲たれたであらうか。エミール・ゾラの “Thérèse Raquen” にもその前にかなりに深く動かされたが、この『短篇集』に對した驚異は、決してそんなものではなかつた。私はガンと棒か何かで頭を撲たれたやうな氣がした。思想が全く上下を顚倒させられたやうな氣がした。ドオデエの短篇、コツペの短篇、ツルゲネフの短篇、そんなものからは、もつとぐつと徹底して物が見てあるのを私は思つた。(565頁)

この辺り、いかにも花袋らしい、要領をえない曖昧糢糊とした文章であって、
「驚いた」ということはよく分かるんだけど、しかし一体何が言いたいのか。

 『あのライトタツチが眞似が出來ない。あゝいふものを書いて見たい。』かふ紅葉はモウパツサンの作を見て言つたことがあつた。鷗外漁史の『審美新説』の中には、『明快簡素なるあの調子』と言つて評してあつた。上田敏氏なども、モウパツサンは單に明るい藝術的の作家であるやうに言つた。それが何うだらう? 私の胸に、體に、心に映つたモウパツサンは?(同)

だから、どうだったんだね一体、と聞きたいのはこちらである、が文章は断固こう続く。

 或は私の心の状態が丁度さうした一種の轉換期に達してゐたのかも知れない。兎に角私は、その『短篇集』によつて、すつかりひつくりかへされた。私はその本を一刻も傍を離さずに、博文館に通ふ途中にも、それをポツケツトに入れて行つた。編輯の餘暇にもよめば、車の上でも讀み、床の中でも讀んだ、何といふ傾倒!(同)

とにかくもう興奮と感動ばかりはよく分かる。しかし肝心な中身がないんである。
後は最後まで行ってしまおう。

 早速柳田君にも二三冊貸した。柳田君は言つた。『ひどいね。好いのもあるけれど、隨分ひどいのもあるね。かういふ作家かね。』
『それが面白いぢやないか。』
『面白いには面白いが、何うも臭味が強すぎるぢやないか。』
『さうかね。』
 私にはモウパツサンとドオデエの相違などが考へられた。丁度その少し前に、私はピエル・ロチの『氷島の漁夫』を讀んでゐた。それとモウパツサンの相違などが痛切に考へられた。事件を叙したものと心理を描いたものの區別、あるところまでしか入つて行くことの出來ない作者と出來る作者との區別、ロマンチツクな作者とリアリスチツクな作者との區別、さういふことがありありと私の頭に映つて見えた。私の心にひそんでゐた、開けずにゐた、しかも動揺し醱酵してゐた心が忽ちそれに觸れたのであつた。『今までは私は天ばかり見てあこがれてゐた。地のことを知らなかつた。全く知らなかつた。淺薄なるアイデアリストよ。今よりは己れ、地上の子たらん、獣のごとく地を這ふことを屑しとせん、徒らに天上の星を望むものたらんよりは――』こんなことを私はその時分の感想錄に書いた。
 西鶴の價値――それも、モウパツサンを讀んでから、私にはよく飮み込めて來た。紅葉、露伴、乃至寒月などの唱道した西鶴とは丸で別な西鶴の價値が…………。(565-566頁)

ここにようやくモーパッサンについて多少語られるわけだけれど、それはすなわち「心理を描いた」
「あるところ」以上に「入って行くことの」出来る、「リアリスチックな作者」ということであっては
どうにも物足りないというか言い足りないというか、これは一体何なのか。おまけに末尾の台詞は
それ自体がロマンチスム丸出しというか感傷過多な措辞であって、モーパッサンに開眼してこういう台詞
に行き着くところ、吉田精一の言うとおり、本質的にロマンチックな詩人であったのが花袋という人だろう。
そういうわけで、この『東京の三十年』の一節は、実際のところ「モーパッサンに驚いた」という興奮以外の
何も語っていないようなものなのではある。
これは後からの回想であって事実を相当に誇張して描いているだろうことも考慮する必要があるし、
要するに典型的な花袋の文章であって、その長所も短所も丸出しである。
しかしながら、あらゆる留保をさしおいても、モーパッサンと出会ってこんなに感動した人物は他になく
その感動をこんなに率直に、というかあるいは過剰に感情を込めて語った人を、
私は他に知らない。
わが身に顧みて考えるならば、肌身離さずモーパッサンを持ち歩いて読んだという
その姿には、素直に感動を覚えさえするのである。
田山花袋はなるほど特殊な事例であろう。しかし明治三十年代にモーパッサンが日本において
もちえたインパクトを、この文章の向こうに推察してみることは、それほどに間違った行為となる
だろうか、どうだろうか。
もちろん「性慾」のことを赤裸に描いた作家として、モーパッサンが当時の青少年の好奇心を
いやが上にも掻き立てただろうという事実は、それとして見過ごすべきでも等閑視するべきでもないし、
花袋だってその点を美化して語っているのが『東京の三十年』であるだろう。
しかし要するにはその点も含めて、モーパッサンが圧倒的なまでに「新しい」ものとして
人々の目に映った時代があった。
そうした遠い時代の貴重な証言として、『東京の三十年』は確かにあるのだ。