えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

巨人の仕事

神戸花鳥園3

いつもながら遅まきながらに読書する。
加藤周一、『日本文学史序説』、ちくま学芸文庫、下巻、1999年
の明治以降の箇所。
なにが凄いって、この浩瀚な著書の中には一行たりと「おざなり」な箇所がないのだ。
それにしてもこの視野の広さは、まさしく巨人にのみ可能な仕事というものだと思う。
さて、目下の問題は自然主義であるわけだけれど、加藤周一の評価は相当厳しいと言ってよかろう。

花袋がトルストイやゾラの文体を問わなかったのは、彼がロシア語もフランス語も知らなかったからにすぎないだろう。小説は人生の「真相」と「無技巧」の散文から成り、「真相」とは当人の日常生活の経験そのままの記録である、という風な考えが、若い小説家の間に、史上初めて、成立した。かくして誰でも小説を書くことのできる時代がはじまったのである。(357頁)

筆者はゾラ自身の文学と日本の「自然主義」との相違を挙げて言う。

英訳でゾラの一部を読んだ日本の小説家は、ゾラを誤解したのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼らはゾラの裡に"naturalisme"を読んだのではなく、一九世紀の西洋の小説一般を読んだ。ゾラの小説のなかに、ゾラに固有の性質をではなく、トルストイドストエフスキーにさえも共通し、しかしたとえば馬琴の勧善懲悪小説や紅葉・露伴の美文からは遠く隔っていたところの、人生の「真相」の「露骨な描写」を見つけたのである。彼らは日常生活のなかで自分がどう生きるかに苦労していたから、社会の全体を考える暇はなかった。「没理想」のたてまえは、ほとんど反知性主義に近かったから、ゾラの科学的世界観やドストエフスキーの宗教的問題を見るはずはなかった。要するに彼らは一九世紀の西洋の小説家を誤解したのではなく、そのなかに彼ら自身が必要としていたものだけを読みとったのである。(361頁)

だから、

日本語の「自然主義」という言葉は(略)フランス語の"naturalisme"とは何の関係もない。(362頁)

それはそうだと思う。彼ら自身が「必要としていたものだけ」を19世紀西洋小説に読んだというのも
その通りだろう。それだけでも何事かだった、と私としては言うよりない。
残念ながら(うるうる)ここにはモーパッサンの名前すら挙がってはこないのだけれど、
「西洋の小説一般」であれば、事情はゾラもモーパッサンもおんなじだ、ということか。
そのことだけが私にはかなしいのでありましたことよ。