えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

繻子の靴

京都芸術劇場にて
渡邉守章訳・構成・演出の
ポール・クローデル作、朗読オラトリオ『繻子の靴』
12時半開演
を観る。
一言で言ってこれは観て良かった。
もっとも私は一応台本を読んだけれど訳分からず、
本上演を観たらよく分かった、ということもないのではある。
それでも、翻訳者渡邉守章が述べていること、
たとえば

フランス語による演劇言語をいかにして日本語に取り返すか
『繻子の靴』、岩波文庫、下巻、2006年2刷、513頁

とか、

 今回は、抄録版の「オラトリオ形式」で上演します。文楽の「素浄瑠璃」に近いものですね。浄瑠璃では「足取り」と言いますが、セリフ運びや全体のリズムを掴み切らずに訳すのは意味がないことです。(中略)言葉の息遣いや意味を理解していることが重要です。比喩的に言えば音楽構造が分っているとでもいいますか。
「京都芸術劇場ニュースレター」、vol. 9, 2008.7.

とか、

 この"朗読のオラトリオ"も、単なるリーディングではなく、音楽における「オラトリオ」をモデルに、"言葉の姿"が、その強度において、鳴り響き立ち現れるようにする実験である。
(当日パンフ、「ご挨拶」)

とかいうことが、大変よく理解されたことだけは確かなのである。
発話される(息を吹きこまれる)ことによってこそ立ち上がる言葉で
書かれているということ。
ポイントは台詞回しが相当速い、ということにあったかもしれない。
倒置の多い構文は、字面で読んでいるとどうしても行きつ戻りつ
時間がかかる(上に律儀に注釈にまで目を通すと尚更であり、
だからして訳者は注なしでまず一読を、と述べているのではあった)
のであるけれど、
これが畳みかけるというか積み重ねるというか
塊となって飛んで来るというか、
間断なき波のようにどどっと押し寄せて来るというか
されると(しかも一流の役者の力量でもって)、
実になんとも説得力がある。
もっとも一瞬たりと油断せずに集中して聴いていないと駄目なので
けっこう大変。読んでない人にはなおさら大変だったろう。
「抄録版」休憩挟んで3時間半は、観客の集中力の限界かと思う。
(2005年には全曲版7時間をやったというのは想像するにすごい。)


そもそもよう分からん中身の話は遠慮して、とりあえずそれだけ
記しておきたい。誤解があるかもしれないけれど、
中身がよう分からんでも私は満足しちゃったので、
演劇とはまあつまりそういうものじゃなかろうか
と思いもするのである。
とは言え、「舞台の上演を視野に入れた」今回の渡邉守章ヴァージョン
から、実際の劇としての上演までの距離はどれだけのものなのか。
そのことは気にかかるのだけれど、
私にはうまく想像がつかないでいる。