えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

友人ジョゼフ

L'Ami Joseph, 1883
「ゴーロワ」紙、6月3日。1899年『ミロンじいさん』所収。
結婚してノルマンディーは トゥルブヴィル Tourbeville の城館に住む
ド・メルール氏 M. de Méroulは幼友達の
ジョゼフ・ムラドゥール Joseph Mouradour とパリで再会する。
ジョゼフは南仏人で、県議会員で共和主義者。葉に衣を着せずに
言いたい放題だが、気のいい男なのでド・メルール夫妻も嫌いには
なれない。夏になり、ジョゼフは夫婦の屋敷に招待される。
着くやいなや、ジョゼフは田舎の服装に着替え、一層陽気になり、
農民には親しげに話しかける一方、司祭には哲学思想をぶって
早々に追い払う。
翌日、夫妻がサロンに入ると、机には「ヴォルテール
「レピュブリック・フランセーズ」「正義」紙が広げられており、
ジョゼフは「ラントランシジャン」紙を開いてアンリ・ロシュフォールの記事を
大声で読んで聞かせる。

 帝国を打ち倒した大家の情熱的な文章が、乱暴に読み上げられ、南仏のアクセントで歌われて、平和な客間に響き渡り、まっすぐな襞の古いカーテンを震わせ、まるで壁や、つづれ織りの大きな肘掛け椅子や、一世紀来同じ場所に置かれたままの重々しい家具に、飛び跳ねるような、大胆で、皮肉で破壊的な言葉の霰をはねかけるかのようだった。
(1巻、837-838ページ)

ド・メルール氏は自分のために「ゴーロワ」を、妻のためには「クレロン」紙を
手にしていたが、窓から放り投げられてしまう。二人に共和派の新聞を持たせた
ジョゼフは言う。

 この栄養をとっていれば、一週間で僕の思想に改心させてあげよう。
(840ページ)

実際、一週間後には彼は屋敷を牛耳ってしまう。
敬虔にして正統派な他の客達とジョゼフとが鉢合わせになるのを
恐れた夫妻は、用事を言い訳に彼に留守番を頼む。

「大変結構、おんなじことさ。ここでお好きなだけお待ちしよう。言ったじゃないか。友人同士の間に気まずいことはないってね。君達の用事に出かけるのは理に適ったことさね、まったく! そのために気を悪くしたりはしないさ。まったく反対だよ。君達とすっかり打ち解けた気にさせてくれるね。行きたまえ、友よ。僕は待っているよ」
 ド・メルール夫妻は翌日出発した。
 彼は二人を待っている。
(841ページ)

最後の現在形はそのまま訳してみた。
王党派の田舎貴族(善良で小心)と共和派の庶民(粗野で厚かましい)との対比
から生まれる滑稽さを軽妙に描いた一編。眼目はこれが
「ゴーロワ紙」に掲載されていることで、ゴーロワは基本的に
(1882年 Arthur Mayer による買収後)
王党派で保守的な立場の新聞だった。作中でゴーロワが出てくるのは
だから結構な諷刺、というかアイロニーというか、なんにせよ
読者は無関心ではいられないようになっている。ロシュフォール
クロニックでも紹介される有名ジャーナリスト。コミューン出の
ごりごり共和主義者。ただし後にはブーランジェに加勢したナショナリスト
ちなみに「クレロン」Le Clairon 「喇叭」紙
はゴーロワから分離した、より王党派色の強い新聞。1881年創刊。83年に
メイエールよって買収。
そのあたりのコンテクスト依存度が、本作が短編集には収録されなかった
理由かもしれない。
それにしても、最後のジョゼフの台詞は、底意の読めない台詞として
うまいものだ。素朴なのか狡猾なのか、読む人次第というところだろう。


先日の「ユッソン夫人」もそうだけれど、
特定な社会的な制度・思想(政治・宗教・身分・伝統)に固執する人
というのはモーパッサンの諷刺の格好の対象となる。
人間の本性に基づかないものは、つまるところ「一つの見方」「一つの立場」
でしかない以上、それにしがみつくのはいわゆる人間の「愚かさ」の証
のようなものである、ということなのだろう。その意味で
モーパッサンは「無思想」だったと言ってもいい。
もちろん、それは本当に思想がないわけではなく、そういうのも一つの
思想だと、言えば言えよう。少なくとも彼が「無党派」であろうとしつづけた
のは確かなことだ。だからここで作者が共和派に肩入れしているのかと
いえば決してそういうことではない。「どっちもどっち」なんだな。
なんにせよ、ごく普通の意味での「自由」がここにはある。
モーパッサンが教えてくれるのは、そういうものの「見方」がある
ということに尽きる、と言ってもいいかもしれない。


そして、1880年代のフランスは、いまだ検閲の制度はあるにしても
ジャーナリズムの世界においてこれぐらいの自由は十分に保障されて
いた、という事実はそれとして無視できないし、それはもちろん
第三共和制の恩恵であった。既に絶対の君主は存在せず、ジュール・フェリーに
代表されるように、政教分離が推し進められてゆく時代、
政治的にも思想的にも絶対的な権威が既に存在しなくなった時代
だからこそ、モーパッサンのような立場に立ち続けることも可能だった。
バルザックが王党派でありカトリックであるということを声高に
主張しなければならなかったような時代は既に昔のことになったのだ。


さてドラマは30分の短い方(「ユッソン夫人」は1時間)。
基本はもちろん同じながら、細部を色々膨らませて
(たとえば女中(既婚)に民主的な思想を吹き込んだ上で
愛人にもしてしまう、とか)作り上げた一編。ジョゼフが
一家を支配してしまう様が、具体的に描かれてゆくので
分かりやすい。何故か神父とは仲良しになっているという
皮肉もドラマのオリジナルだけれど、それとして面白い。
ヴォルテールにルソーにユゴーが共和派のバイブルとして
挙げられたり、会話中にジュール・フェリーと政教分離政策が
話題になったり、女中が離婚するなら追い出してやると
夫人が言ったりと、時代を色づける工夫も施されている。
(厳密に言うと離婚法(ナケ法)成立は1884年ですけどね。)
比較的マイナーな原作かと思うけれど、この掌編をうまく立ち上げた
手際は評価されていいように思う。
監督は Gérard Jourd'hui。