えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

本探しています

故あって次の本を探しております。
モーパッサン作、広津和郎訳、『女の一生』、新体社、昭和22(1947)年
もしもこの本をお持ちで、譲ってもいいとおっしゃる方がおられましたら
ぜひともご一報ください。よろしくお願いいたします。


それはそうと昨日の続き。
スパニッシュ・アパートメント』とナショナル・アイデンティティーについて。
国籍にまつわるステレオタイプ的な見方は、ウェンディの弟がぶちかまして
顰蹙を買う場面に明らかなように、この映画の敬遠するところのものであり、
彼等はことさらにナショナル・アイデンティティーに拘りを持っている
ようには描かれていない。そこに恐らくはヨーロッパの融合という
あるいはある種の理想的な姿が提示されているということだろうか。
もちろん、それはEU内という限定のつくものではあり、もしここに
ユダヤ人やトルコ人やイラン人やインド人やアルジェリア人や
あるいは日本人が混ざっていれば、話はあるいはややこしくなるのかも
しれないけれど、それはまあこの映画の目指すところのものではない。
ということがまずあって、この映画でたぶんもっとも興味深いのは、
主人公グザヴィエが最後にたどりつく「発見」にあるだろう。
自分はかつての色々な時期の「自分」の全部であり、また自分は
出会った彼等、彼女達でもある、とグザヴィエはそこで言う。
ディクテは自信ないんだけど、おおよそこんなセリフ。

Je suis français, espagnol, anglais, danois. Je n'est pas un mais plusieurs. Je suis comme l'Europe, je suis tout ça. Je suis un vrai bordel.
僕はフランス人、スペイン人、イギリス人、デンマーク人。「僕」は一人じゃなくて何人もだ。僕はヨーロッパのように、それらすべてだ。僕はまったく混沌としている。

この場面、映画的にはいささか唐突な感が否めないのではあるけれど、
それだけ一層力点が置かれているシーンでもあるだろう。
つまりここに至って「ごちゃまぜ」なのはヨーロッパ人としての「私」
そのものであり、オーベルジュ・エスパニョールはこの「私」自身の
換喩的存在でもある、ということが明らかになる。
ここに至って、この映画ははっきりと本質主義的な
ナショナル・イデオロギーから遙かに遠い地点へと突き抜けることが
できている、と私には思われるのであるが、それはもちろんのこと、
サイード『文化と帝国主義』後半における、ナショナリズム批判の
記憶が生々しいからに他ならない。
ここではまだEU圏内どまりである、ということは繰り返しておいた上で、
サイードの著書の末尾から引用させて頂きたい。

 今日、誰もが、純粋にひとつのものではない。インド人あるいは女性あるいはムスリムあるいはアメリカ人といったレッテルは、せいぜい出発点にすぎなくて、ほんの一瞬でも実際の経験に足を踏み入れるなら、すぐにも忘れ去られてしまうものなのだ。帝国主義は文化とアイデンティティとの混合を地球規模で強化した。しかし、そこからもたらされた最悪の、もっとも逆説的な贈り物とは、人びとに、自分たちがただひたすら、おおむね、もっぱら白人あるいは黒人あるいは西洋人あるいは東洋人であると信じこませたことだ。しかも人類が自分自身の歴史を築いてきたように、人類はまた自分の文化なり民族的アイデンティティをつくりあげる。執拗に連綿とつづくところのいにしえよりの伝統や継続的な居住や民族言語や文化地理を否定できる者は誰もいない。けれどもそのような他者との分岐点や相違点に、これこそが人間の本質であるかのごとく、こだわりつづける理由は、恐怖と偏見以外にどこにもないように思われる。事実、生存とは、さまざまなものを結びつけることを中心にして達成される。
(サイード『文化と帝国主義』、大橋洋一訳、みすず書房、第2巻、2001年、245-246頁)