えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

リシャール3

水木連チャンでリシャール。いささかへろへろ。


現実に完全に背を向けたような作品は存在しない、ということから、
リシャールは、どれほど「空」を志向していようとも、マラルメ作品においても
現存するもの、すなわち事物、身体、形体、物質、気質、風味、などが、
作品の支えであり、表現手段であるのだと説く。
物質が、それを所有する精神を描きだす。外が内を描くのである。
最も純粋な精神性も、感覚世界において自らを試し、自己の性質を決定する。
マラルメの夢想は、一見異質ではあるが、触知できない抽象的・知的な現実をも
支えていることをつけ加えなければならない。概念の夢幻的状態。
概念もまた、我々の内に生き、それを考える者にとって第一の意味を持つ。
思想もまた我々の気質と共謀関係にある故に、それ固有の生理をもつのである。
イデオロギーそのものでなく、身体、血液、夢想が、知的創造へと至るその運動。
理性は自らの内に、経験の最も暗い部分を開花させるのであるから、我々は、
詩人の抽象的な理論をも、告白されざる詩として考えることが許されるのである。
作品の身体的側面に触れることで、マラルメ作品は傑作の二つの本質的特性を
明らかにするが、それは一貫性と単純さ、である。偶発的なもの、余計なものは存在せず、
解決できない矛盾はなく、帰結にまで至らない着想もない。
関係と構造に取りつかれた想像力の支配する、この網状の性質を持つ詩に対しては、
マラルメ自身が言語を捉えていたのと同じような、関係によって成立する構築物として、
考えることができるだろう。網の目の複雑さにもかかわらず、モチーフの反復性と
素材の限定とが、テーマの発展のありかたを厳密なものとしている。
夢想の驚くべき論理性に従って、マラルメは一つの道程を走破した。
彼の死によってもたらされた空白さえもが、逆説的な仕方で、彼の企図が
達成しえたであろう唯一の次元を指し示しているかのように思われる。
一見したところの無秩序さを還元すること、それが批評家の勤めである。
人生は偶発事に満ちているが、作家が真に生きるのは作品の内であり、
そこにおいて彼は自らを告白し、自らを作り出す。
共感によって作品を生きなおすことによって、その唯一の射程を再現させることができよう。
そこでいう統一性とは、質的なものである。人や事物を前にしての反応がそうであるような、
一貫するアイデンティティー。マラルメ自身が、たとえばヴィリエの内にそれを見出すことに
喜びを感じていたのではなかったか。
その同一性の徴を、内側から、生まれ出たばかりの状態として捉えられれば、批評は幸福である。
文学的世界の「特性」ないし「精神性」を引き出すこと。
出現やインスピレーションの偶然性にもかかわらず、作品は固有の文体、特有の姿勢、
唯一無二の存在様式と、自らを告げる方法を備えているものなのである。


技術的、方法論的な問題について簡単に触れておく必要がある。
まずテーマとはそもそも何か。
マラルメが言語の「語根」を定義した言葉が、そのままテーマに応用されよう。

un thème serait alors un principe concret d'organisation, un schème ou un objet fixes, autour duquel aurait tendance à se constituer et à se déployer un monde. (p. 24.)
すなわちテーマとは、組織化の原則、固定された物体や図式であり、その周囲に一個の世界が構築され、展開される傾向を持つものであるだろう。

テーマの摘出は通常、頻度によって成される。主要なテーマは作品の見えない構造を形成し、
それ故に組織化の鍵を我々にもたらすものである。繰り返しは、固定観念を指し示す。
しかしながら、我々は統計学的な語彙の調査を行わない。
まず、テーマはしばしば語を越える。マラルメ特有の図式は統一を破壊し、また別の統一に
まとめあげる、というものであるが、そのような意味の複雑さを捉えられるような単語は存在しない。
次に指摘するべきは、語の意味は常に変化しうるものであるということだ。
それ自身において、周囲との関係において。
テーマ研究においても、定義は相対的であり、意味作用は全体的で多価的である。
意味の多様さ、その「緊張」と「レベル」の相違、経験に根を下ろす程度、
「反響」の効果を理解しなければならないが、それらすべての要件が、
質的で詳細な理解を要請するのである。
それぞれの例は個別に詳細に判断されなければならないが、それによって、
主要なテーマの存在を突き止め、その価値、周囲との関係がもたらすニュアンスを
評価することができるだろう。
そもそも頻度は唯一の基準ではない。それが常に本質を示すとは限らないのだ。
より重要なのは、テーマの戦略的価値、そのトポロジックな性質である。
重要なのは内的空間の「交差点」を位置づける図式であり、それが、
生の多様な領域における組織化の規則を明らかにする。たとえばマラルメにおいては、
裸形が、エロチックな領域から、美学的・形而上学的領域にまでわたるように。
「打撃」や「噴出」「輝き」もまた同様である。
これらのテーマを区別するには、経験の多様な段階を相互に重ね合わせ、
その比較地理学を確立し、それが一個の経験を構築するためにどのように
交流するかを見定めればよい。その時、テーマは他動的な要素として現れ、
あらゆる方向に作品の内的広がりを走破することが可能となるだろう。
テーマ研究はしたがってサイバネティックであると同時に、分類学に属する。

この能動的システムの内部で、テーマは有機的に組織化される。
それは同形の法則に従い、可能な均衡を求める。この均衡の概念は、
レヴィ=ストロースピアジェが、社会学、心理学の領域に導入したものである。
想像力の領域において、テーマは対立項として、あるいはより複雑に、
多数の均衡あるシステムにまとめあげられる。たとえば概念についての夢想において、
マラルメは「開放」と「閉鎖」の間に揺れているかのようである。
閉鎖と開放、明晰なものと、逃れ去るもの、媒介と直接性、これらがマラルメ
経験の多様な段階において認められる精神的二項関係である。
重要なのは、これらの対立がどのようにして解消されるか、どのように新しい
統合概念の内に落ち着くかを知ることである。
「閉鎖」と「開放」の対立であれば、それは「扇」「書物」「踊り子」などの
形象に到達し、そこでは対立する欲求は双方ともに充足を得るのである。
本質は「音楽」という統合的現象の内に、同時に合算され、霧散するだろう。
このようにしてマラルメは詩の内的現実、事物の理想的な構造を思い描くが、
詩は自らのうちにそれを再び秩序づけるのである。
洞窟、ダイヤ、蜘蛛の巣、薔薇窓、東屋、貝、そうしたイメージの内に、
自然による、自らとの相関関係の位置づけへの願望が現れているのである。
夢想の深い傾向が、どのように互いの対立を越えて幸運な均衡に辿り着くのかを見ること、
それが我々の試みたことである。


心理的現実をテーマとは異なる視点から考察しうるだろうか? たとえば象徴によって。
ミルチャ・エリアーデの作品についてリクールが分析したのは、
象徴世界を前にして我々の有する多様な理解様式である。それはテーマの現象学にも
応用することができるだろう。テーマを理解すること、それはその「多数の原子値を展開する」こと。
たとえばマラルメの「白」の夢想は、
無垢の喜び、不感症の苦悩と障害、開放と自由と媒介の幸福を受肉化する。
それは一つの複合体の内に、意味の多様なニュアンスを関係づけることである。
同様に、リクールにならって、一つのテーマを別のテーマによって理解する、
「志向の類推の法則」に従って進むことも可能であろう。
青空からガラスへ、白紙へ、氷河へ、氷山へ、白鳥へ、翼へ、天井へ移り、
これらの進展のもつ側面的な分岐をも見落とさないようにすることである。
そのようにして、一つのテーマがどのように、「経験と表象の幾つもの段階、
外面と内面、生的なものと思弁的なものとを統一化する」かを示すことができるだろう。


注は省略。やれやれ疲れた。けっこう読んだものではある。
とりあえず。