えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

凝縮された魂

土曜日マラルメ
日曜日会議。
本日、苦手な例文作り。
ジェロンディフ(同時性)についてはこんなの。
Elle a regardé le ciel en essuyant ses larmes.
「彼女は涙を拭きながら空を眺めた」
元ネタはマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール
だめっすか。


1895年8月3日、『フィガロ』の別冊に「自由詩と詩人たち」についてのアンケートに答えた際に、
掲載された作品。作品集への収録なし。
ミストラルは現代のもっとも高貴にしてもっとも庶民的にしてもっとも「真の」詩人である云々。
古典的な詩句がポエジーという聖堂の身廊であれば、自由詩とは魅惑と神秘と豪奢あふれる側廊の
ようなものでもあろうか、云々。ヴィエレ=グレファンが言ったように、
ポエジーとは魂の状態についての音楽的にして過敏症的にして感動をもたらす表現に他ならないのですよ。
7音節、エリザベス朝式ソネ(ある意味、へそ曲がりみたいな頑固さよ)。

凝縮された魂の全体
我々がゆっくりとそれを吐き出す時
別の輪の内に消えてゆく
幾つもの煙の輪の中に


なんらかの葉巻の存在を証す
巧みに燃える 灰が
火の明るい接吻と
離れさえするなら


そのように恋歌の合唱が
口元から立ち昇る
君が始めるなら そこから除きたまえ
現実を 何故なら卑しいものだから


あまりに明確すぎる意味は打ち消してしまう
君の漠然とした文学を
(Mallarmé, OEvures complètes, Pléiade, t. I, 1998, p. 59-60.)

さて問題です。
この詩における、煙草と煙と灰(と喫煙者?)の関係は
詩人と詩と現実(とあと何だ?)と、どのような関係にあるのでしょうか。
煙は詩です。灰は現実かもしれません。だとすると煙草は魂でしょうか。
それは燃やしてはいかんのか。うーむ。
最後の4行が、「あまりに明確すぎる意味」のために、詩的魅力を
「打ち消し」てしまっているように見えるのは、あるいは諧謔なのか、
単なる失敗作なのか、どっちなんでしょうか。


それはそうと、筑摩書房から『マラルメ全集』1巻が遂に刊行されるという宣伝が届く。
本文に倍する注釈がつくそうで、それはなるほど見てみたいものだ。
お代は2万円。あうあう。