えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

分からないのは問題か

今日一番良かったことは、でっかい虹が見られたこと。
できることならあの足元まで歩いていきたかった。
二番目によかったことは、「のばら犬」どののコーラスがまた聞けたこと。
今日は控えめのようでした。
じっと見てたら、「あっちいけ」と怒られました。失礼いたしました。


土曜日マラルメ。『賽の一振りは決して偶然を破棄しないだろう』2回目。
見開きで数えて5枚目まで。
等比級数的に分からなくなっていくので、
せめては、何故分からないのかを考えてみることにする。
理由はそんなに難しくない。
1 構文が破綻している。
  各見開きはそれなりに自立性があり、一応の主幹文が存在するが、
  それに付随する要素間の関係性が容易にはつかめない。
  とりわけ5枚目は「遺贈」「ダイモン」「それ=ダイモン」「彼(たぶん船長)の影」
  「海または老人」「婚約」「狂気」という名詞(句)が並んでいるだけで実に困る。
2  単語が脈略なく意味不明。
  以上の結果、おもむろに出現する「婚約」が何と何の婚約であるのか、とか
  解釈によるしかなく、解釈は一義的ではない。
  通常であれば単語というものは、ある程度文脈の中で出現するものであるが、
  ここにあっては単語が登場した後で、事後的に文脈が作りだされるとでもいえようか。
  単語の選択に関しては、語彙は必ずしも難解ではないが、
  意味の幅の広い語が好んで使用されるので、その意味を限定するのが
  またこれ容易ではない。maîtreは第一義的には「主人」であるが、
  文脈から「船長」である、と推定されるに過ぎない。
  l'Abime, l'ombre, Esprit, démon等もしかりか。
3  より問題な点として、単語と単語の結びつきがあり得ない。
  冒頭から読んで最初につまずくのは、恐らくは
  sous une inclinaison / plane désespérément // d'aile
  「翼の絶望的に平らな傾きの下で」の語句。
  この「翼」が何かが分からないのは上記によるが、「平らな傾き」とは何じゃ。
  「傾き」という抽象概念に対し、「平らな」という具体的な状態を表す語がつくというのは、
  通常はありえないので、率直にいって言葉になっとらんのではないですか。
  さらに加えて「傾きの下で」とはいかなる事態であろうか。
  もちろん、それは「凝縮された詩的言語」というものではあろうが、ものには程度というものがある。
以上の要素が複合的に合成されたところに出来上がっているテクストが、
通常の意味で「読みやすい」わけがあろうはずもない。
従って、ここで我々がまず認めるべきなのは、
このテクストは簡単に分かるようには出来ていない、
ないし、簡単に分からないように出来ている、という厳然たる明白な事実である。
それに対して「分からへん」と呻いてみても、
要するには、マラルメのおじさんの術中にはまっているに過ぎない、というものだ。
問題は、このテクストは「簡単に」は分からないのか、
それとも「根本的に」分からない代物なのか、という点にある。
眼光紙背を徹する勢いで読めば、あるいは詩人マラルメの人と作品を深く知ることをもってして、
テクストはある一義的な意味を遂に我々に明かすに至る、
というようなことが、果たして本当にあると考えるべきなのかどうか。
律儀な仏文学者は、かくしてテクストを「合理的」に説明するべく苦労を重ねる。
もちろんたとえば『イジチュール』の断片は我々に多くを教えてくれるので、
「唯一の数」とは恐らくは6・6のぞろ目であろう、というような推測も生まれてくる。
さはさりながら。
分からないように書かれているテクストを、通常の読解によって分かるようにする
という営為は、『賽の一振り』を読むに際して、本当にベストな選択肢なのであろうか。
という一抹の疑念を、私はどうも拭い去ることができない。
真に新しいテクストとは、新しい読み方を要請するものではないのか。
『賽の一振り』は間違いなく、19世紀フランス文学の文脈において突出した存在である。
それは、このテクストが、言語表現と、その読解行為とはいかなるものであるか、
という問いの先に生まれた、ある実験的な営みである、というそのことによるのではないのか。
だとすれば、このテクストの要請する読みの在り方とは、一体いかなるものなのか。
「分からない」の泥沼にはまることを避けながら、なお「分からない」テクストを「読む」
ことの可能性はどこにあるのか。
とりあえず、「分からない」のはそんなに問題ですか、という形の問いも、
この際あってしかるべきではないか、とまあ思ってはみたのです。