レポートを読むか絵を描くかしかないとなると、だんだん「究極の選択」じみてくる。
今日は55本。都合146本。おお、終わりが見えてきた。
みなさん大層変換ミスが多いのが困りものですなあ。
(しかし「侵食をともにする」とかいうのは、本当にただの誤変換なんでしょうね)
今日一番の傑作をご紹介させていただいてもよろしいか。
ずばり、
一物の不安
あははは。
絵のほうは常時3,4人が同時進行しているのであるが、
ほとんど描きなおしのフロベールも完成してしまう。
こんな配色はありえないのであるが、なんとなくこれしかないなと。
ちなみにこれで、構成パーツ数約60(文字は除く)。目下の平均といったところ。
フロベールといえば、
フローベール、『感情教育』上下、山田𣝣訳、河出文庫、2009年
が一昨年に出た時には驚いた。
何故に今ジャク先生が出てくるのかよく分からないけれど、しかしこれは大変読みやすい訳文。
『感情教育』の何がすごいかというと、
ゾラは20冊かけて第二帝政時代を「ぜんぶ」描こうとしたけれども、
フロベールはこの一冊のなかに七月王政の時代を丸ごと詰め込んだ。
つまり、凝縮濃度20倍である。それぐらい凄い。
これをフレデリック・モロー主人公の物語だと思って読むと、
なにしろ希代の優柔不断男フレデリックに苛々させられることになるので
(いつになったら行動するんやお前は、と思ってると、最後まで何もしないんだなこれが)
彼はこの小説の狂言廻し的役割の人物だと思った方がいい。
『感情教育』は七月王政下のパリと、そこに飛び交った言説とを(再)構成して描き出す。
そこにあって、労働者の間で不満の圧力が次第に高まり、遂に爆発するに至る過程
(と、それに続く幻滅)が一本の筋を成している。
だから、この本を読むとマルクスが出てくる土壌がどのようなものだったかがよく分かる。
マルクスはフロベールより3歳、エンゲルスは1歳年上の、まったくの同時代人だった。
そのことはもう少し強調されてもいいと思う。
フレデリック・モローとは何か。
彼は「永遠の可能態」である。
人が社会において何物かになるということは、
同時に、それ以外のすべての選択肢を排除することを意味するが、フレデリックにはこれができない。
一か所、引用しておこう。
ある種の男にとっては、欲望がつのればつのるほど、それを行動にうつすのがむずかしくなる。自信のなさが決意を鈍らせ、嫌われるおそれが心をおびえさせる。それに、深い愛情というものは貞淑な女性にも似て、目立つのをはばかるあまり、目を伏せたまま一生を送ってしまうのだ。
(上巻、291頁。第2部3章)
彼にはあらゆるチャンスが巡ってくるのであるが、
しかし彼自身が積極的に何かを選択するということは、ほとんどないといっていい。
(せいぜいロザネットとくっついたことだけだろうが、それも成り行きだ)
意識的にも、無意識的にも、選択し、行動することを彼は避け続ける。
結果的に、彼は何物にもならないし、なりえない。
言い換えれば、彼のすることは夢を見ることだけであるが、
永遠に夢を見続けるだけの人間には、おそらく失望するということもあるまい。
物語論的にいえば、彼の機能は「見る」ことに特化されているわけだけれども、
それにしてもフロベールは、なんでもってそういう人物を創出したのでありましょう。
まこと「先生」のお考えは深遠でありますなあ。