えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

関東支部論集19号

仏文学会の関東支部論集19号(2010年)をご恵贈いただいたので、興味のあるとこだけ読む。
その前に一言申し上げておきますが、
表紙に目次印刷して、1頁目から本文というのは、今の時代、貧乏ちいからやめたほうがいいです。
本としての体裁というものを、文学する人はちゃんと考えるべきでしょう。
僭越でしたね、はい勿論です。


岡田彩香、「『長靴をはいた猫』について―ストラパローラ『コンスタンタンの雌猫』との比較を通じて―」、1-14頁。
冒頭の問いが素晴らしい。

 『長靴をはいた猫』(1697)の猫はなぜ長靴をはいているのだろうか。(1頁)

何故でしょう。気になりますね。いい出だしです。
ペローの元ネタであるストラパローラの作品では猫は雌であり、ブーツを履いてはいないそうで、
それを雄猫にかえ、ブーツを履かせる改変に何を読みとれるかを論じたもの。
論旨は明快。結論も正当な範囲で好論文でした。


大須賀沙織、「バルザックセラフィタ』における聖書」、29-42頁
こういう小説も書いてるから19世紀前半は隔世の感があるのだけれども、
そんなことはともかく、この小説における聖書の引用・典拠を詳細に取り上げて、
神秘思想とスエーデンボルグを受け継いだ、バルザック独自のキリスト教観、
および聖書解釈のありようを論じたもの。堅実なお仕事でした。
一少女、てか一天使の昇天をキリストに重ね合わせるとか、
普通に考えて、まったくもっての「異端」思想だと思うんだけれども、
しかしまあバルザックさんは大真面目なんですよね。いやはや、まあまあ。


林健太郎、「フロベール『聖アントワヌの誘惑』における幻覚の言語化」、43-55頁
アントワーヌ(と私は表記しますが)が見る幻覚の描写には、
フロベール自身の体験も投影されているのではないか。
当時の科学的知見にも則りつつ冷静に人物を「観察」する作者は、
同時に書きながらそれを追体験する作家でもあった、というその二重性について論じたもの。
論旨には異論なし。ただこの種の論じ方はいささかナイーヴになる危険があるので、
「作家」重視の古典的論述に、どう新鮮さを吹き込むかが今後のポイントと見ました。
『聖アントワーヌ』は決定稿完成までに29年かかった。その息の長さは実に驚異的。
異教の神様がずらずら登場する、その描写をじっくり味わうと、
興味の尽きない本なんだけども、しかしまあ大変な著作であります。


Tomofumi Shibuya, ""Folie" et "intelligence" dans l'œuvre critique d'Anatole France", p. 57-67.
(表紙の目次が日本語タイトルなのもおやめになったほうがよろしいでしょう)
私の見るところ、タイトルと論の主題がややずれたかなとの印象あり。
87年のエッセーの中で、「狂気」も知性の一つの現れに変わらないことを
フランスは論じている。
各人各様の世界認識があるのみであれば、正気と狂気の区別などどこにあろうということになり、
実際、フランスの小説には「狂人」がたくさん登場している。
想像と現実との境界を超える限りにおいて、作家もまたある種の狂気を生きているのであればこそ、
正気と狂気とを逆転させてみることを、フランスは試みたのではなかったか
というような感じ(ちと要約が恣意的かもしれません)。
あれですね。相対主義と呼ぶか主観主義と呼ぶか、あるいは独我論だけども、
そこには実証主義的精神医学への反発もあって、世紀末特有の議論はいかにもアナトール・フランス
狂気がただの病でしかなかったら、天才とは何だ、霊感はどこへいったのか。
いかにも昔が恋しくなりますよね、アナトールさん、てな感じ。


村上由美、「マラルメにおけるロイ・フラーの問題―「もうひとつの舞踊論〜バレエにおける背景、最近の事例に基づいて」から―」、69-83頁
1893年初出のロイ・フラー論には先行の論があり、マラルメはそれを踏まえていること、
『ディヴァガシオン』への書き換えに至って、ロイ・フラーを足がかりにしつつ、
あくまでバレエについての考察が主題となること。
バレエこそが彼にとってもっとも詩を体現するものであった、という結論はもちろん妥当かつ正当なもの。
ただ私にはロイ・フラーの踊りがバレエとはまったくの別物だったのかどうかが
ちょっと分かりかねる。
ロイ・フラーは個別なもので、バレエはジャンルである。
マラルメという詩人がいて、詩というジャンルがあるように。
もっとも、具体的なものから抽象的思考を引き出すのはマラルメの論法そのものであり、
彼のバレエ論が、ロイ・フラーというある種の「異物」によってこそ喚起された
という点に注目すべきだという点で、著者に同意。
ここからどこへ進むのか、気になるところです。


ああ、ちょっとおいら疲れたな。


田中琢三、「ジュール・ユレの『アンケート』における世代の問題―19世紀末の小説の状況に関する一考察―」、143-155頁
倉方健作、「「高踏派」の擁護と顕揚」―『文学の進展に関するアンケート』をめぐって―」、157-170頁
ともに1891年刊行の『文学の進化に関するアンケート』を読むことで、
当時の文学界の状況を窺うもので、小説・詩とセットになっているところが乙。
アンケートをとるためには、質問者の予断が必要なわけで、
ユレのそれは、小説においては自然主義と心理派、
詩においては高踏派と象徴主義が、世代および流派の対立を生んでいるのが
当時の文壇ではないか、というものであったわけだけれども、
両論においては(奇しくもと言うべきか)、このユレの立てた簡明な図式が、
必ずしも現実にぴったり当てはまるものではなかった点が指摘されている。
象徴派が目の敵にしたのは高踏派よりも自然主義であったし、
自然主義と心理派には根本的な対立は存在していなかった。
高踏派は流派なんかではなかったと当の詩人が言い、
象徴派の若者も、実のところ一枚岩ではなかったし、この両者の間には交流も盛んだった。
ま、作家は皆好き放題を言うものだし、批評家は概念的に理解したがるものだ。
ユレの予断がどうであったにせよ、60余名のインタヴューを通して、
90年代初頭の文壇地図が見えてくるという点で、このアンケートの資料的価値を再評価するのが、
両論の基本的な主旨といっていいだろうし、それはまったくもってその通り。
後者がとくに説いているのが、高踏派のおじ(い)さん達が、この時まだまだ
元気一杯だったということで(とはもちろん書かれてないけど)、
実際のところ、ルコント・ド・リールとかもう余裕綽々であって、
若造が何言ったって痛くも痒くもありはしない。
それはまあそんなもんに違いないよな、としみじみ思う。
だからこそ若者はなおさら憤ることにもなろうというものだけれども。
19世紀後半、文学がすっかり商業化した時代にあっては、
マーケットが重要な価値を持つものと認識されるし、
そこに参入するためには「新しいもの」であることが、どうしたって要求されることになる。
商品を売るための市場の獲得競争というとこだけに焦点を当てれば、
作家もまた資本主義経済の社会に生きていたということであり、
企業と一緒で宣伝というものが重要なファクターになる。
ありていに言えば売名行為であれなんであれ、名を知られてなんぼの世界ということだ。
象徴主義宣言しかり、ゾラを罵倒する5人組宣言しかり、
要するにそのメッセージは、
「あんた達は古い。俺は新しい」ということに尽きる。
北斗の拳ですな。お前はもう死んでいる、と。
ユレいわく、インタヴューを受けた者達の悪口のあまりのひどさに辟易としたそうであるが、
そこに生存競争がかかっていれば、むべなるかなという気もしないではない。
思うに、ユレのアンケートは単に「社会進化論」を踏襲しているという以上に、
もっとはるかにこの時代のイデオロギーを多重的に反映したものであるだろう。
私はそれを的確に摘出したいと思うのだけれど、なかなかうまく果たせないでいる。
それは、彼を支配するイデオロギーが、私にも深く浸透している故なのかもしれない。


はい、こんだけ書けばもはや御用記事とは呼ばれまい。
そうでもないか。
なんにせよ、いずれも面白く読みました。
おいちゃんも負けずと論文書くけんね、とせいぜい発奮したいと思います。