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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

オブセッションがいっぱい

竜之介さん、ペレンナさん、コメントをどうもありがとうございます。
風邪のことまでどうもどうも、お恥ずかしい限りです。
昨年の冬にFさんに「手洗いうがいをちゃんとしてたら風邪なんか引かないんだよ」
と力づよく断言いただきまして、「おおそうか」とそれから励行しておりましたが、
いやもう脆弱で困ります。
リポビ○○とかアリナ○○とか色々試しもしましたが、
結局まあ、風邪引いたら「すべてを放棄して寝られるだけ寝る」というに尽きるのではないかと。
でまあたくさん寝てますので、「忙しい」とか恥ずかしくてよく申しませんが、
ペレンナさんにはご返事滞っておりまして恐縮です。
プルースト再読完了とは凄いですね。お見事です。
ぜひその勢いでモーパッサンも。


リアリズムに関しては、これはもう永遠の宿題みたいなものなので
ひとまず措いておくことにしまして、
竜之介さんには引用もどうもありがとうございました。
そうか、オッシュコルンも強迫性障害か、と言われてみれば納得しますが、
ことこの件に関しては、モーパッサンは大家といってよろしかろう。
あんまり嬉々として語るような話でもありませんが。
症例報告は色々あるので、多少は予防薬になるかもしれないけど、
しかしまあ処方箋にはなりませぬ。
自分の美貌大事さに、天然痘にかかった息子の世話ができないお母さん、「マダム・エルメ」。
「目に見えないものを見てやる」という妄執にとりつかれ、
ついには「変なものが見えるんですけどどうしましょう」と医者に訴える「狂人の手紙」。
己の恋人の浮気相手は、彼女が乗る「馬」に違いない、と確信し、
ついにその馬を撃ち殺すにいたる「狂人か?」
人間嫌いが昂じて花を溺愛する「ある離婚の事例」
オブセッションの一種かと思うのだけれど、そうすると
古家具の中に見つけた昔の女性の髪を溺愛し、そこに女性の姿を見てしまう
「髪の毛」も妄執にとりつかれた事例といえるだろう。

L'esprit de l'homme est capable de tout.
(Maupassant, "La Chevelure", in Le Horla et autres récits fantastiques, Livre de poche, 2000, p. 146.)
人間の精神に不可能はないんですよ。(「髪の毛」)

こういう事例におしなべて「狂気」の語があてられるのは、19世紀当時のこととして、
普通の人が、些細なきっかけを機に妄執にとりつかれる、その姿を、作家は繰り返し描いた。
モーパッサンにあっては「観念」がある種自立した「物」として存在し、
これに取りつかれた人間には成す術がない、といったところがあり、
これは「目に見えないけど存在するもの」に対する恐怖とも通じ、
行きつくところはやはりどうしたって「オルラ」になる。
モーパッサンがかほど固定観念オブセッションに固執したのは、
作者自身がそれを身内に感じていたからではないのか、という問いもごく自然に生まれてくるわけで、
その典型といえるのは、「私生児」の主題が繰り返し作品に描かれることだろう。
もっとも、作家というものは大抵、自分のオブセッションを大事に育て上げる人
のことではないか、というような気もしないでもないけれど、
モーパッサンにとって「書く」ことは、
自分の内にある脅威を追い払うexorciserために必要だったのだ、
というような言い方を、フランス人の研究者は好むようだ。


それにしても「紐」というのは恐ろしくも悲しい話であって、
その教訓はつまり「ただより高いものはない」ということなんだろうか。
何故「紐」なのか、といえば、恐らくそれが「有用でありながらそれ自体はほとんど無価値なもの」だから
選ばれているのだろう。その「ほとんど無価値なもの」を拾って懐にしまった、
というただそれだけのことで、一人の人間の人生は劇的に変わってしまいうるのだ。
そして自分の無実を主張すればするほどに、オッシュコルン爺さんは
疑われ、からかわれ、愛想を尽かされ、それ故にいっそう彼は躍起になって同じ話を繰り返す。
その悪循環の哀れさ。
あたかもその「ほとんど無価値なもの」と「人生」とが等価物であるかのように、
爺さんは最後には息を引き取って終わるのである。


なにやら暗い話になってしまいましたが、
ではではお二人様、今後ともどうぞよい読書を。