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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ニヒルなひと

今日、ふと「ああこれがニヒリズムということなのか」と納得してしまったので、
そのことを記す。
モーパッサンの作品について考えていると、その大きな特徴として
価値の相対化というものに突き当る。
モーパッサン、あるいは極めつけの相対主義者。
そこには絶対的な価値というものが存在しない。
人生は気まぐれな偶然の支配するものであり、
愛はエゴイスムと表裏、勇気は野蛮と紙一重で、意志と狂気もまたしかり。
おそらくは生と死さえ、絶対的な対立関係にはない。
「生きることは死ぬことだ」と『ベラミ』の中である人物は言う。


ところで、
ミッシェル・クルーゼモーパッサンには「現実的なるものについてのレトリック」があると述べた。
「現実性」は不安定さ、非決定性の捉え難さの内にこそ感じ取られる。
既成の価値観をずらし、覆し、すべてを同一の地平においてみせることで、
モーパッサンの描く世界は我々に「これが現実だ」という印象を与えるのだと、
いささか難解な論文を読み砕くと、そういうことになる。
だから人間的価値について相対主義であること、
そこにこそモーパッサンのレアリスム(現実と対峙する姿勢)を見てとるべきなのだ。
ということを考えているうちに、
それはつまりその語の古典的な意味でのニヒリズムそのものである、
ということに今更ながら思い至った次第。
至ってみれば、うーむ、やっぱりそうなのかな、と言うよりない。


ニヒリズムを克服する道?
フロベールと同じで、モーパッサンにとってもそれは「芸術」
すなわちは「書く」ことの内にあったと、
今度はマリアヌ・ビュリーにならえば、恐らくそこに行きつくに違いない。
違いないことは分かっているのだけれども、そこに行き着いていいのかな
という迷いみたいなものは、ある。
だがそこに行き着くしかないのかもしれない。
書くこと、書き続けることが、幻想を捨て去った作家に残された唯一の道である時、
読者は一体どうなるのだろう。置き去りにされるしかないのだろうか。
モーパッサンととことんまで付き合う時、私はどこかに辿りつけるのだろうか。


てなうわ言じみたことを書いてしまいました。いやはや。失礼しました。