えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

靴底が前のランボー

靴底が前の男

ここのところ度々お世話になったT君に
感謝の気持ちを込めて、ランボー像をささげます。
パリ4区、place du Père-Teilhard-de-Chardin にある
Jean-Robert Ipoustéguy (1920-2006)による
"L'Homme aux semelles devant"
「靴底が前にある男」という題の作品。
時の大統領ミッテランの依頼を受けて、1984年作の由。
ヴェルレーヌランボーを評して言った言葉
"l'homme aux semelles de vent"
「風の靴底を持つ男」のパロディだそうで、実際、まあ、靴底が前にあるのではある。


アルチュール・ランボー
「天才詩人」という触れ込みに惹かれて、実際に手に取ると、意外なほど難解で途方に暮れてしまう、ということが、けっこう多いのではないかと推察する。
まったく個人的に思うのは、ランボーが詩を書いていた「場」というのは、ものすごく個人的な場だったのだろうということだ。
言い換えると、彼には具体的な読者があまり見えていなかったのではなかろうか。
(当然といえば当然のことではある。
なんにせよ、私にとってモーパッサンの対極にいるのは、マラルメよりもむしろランボーであるかもしれない。)
詩を読ませたいと思った人は何人かいたかもしれない。だが、彼は自分の作品が理解されることを信じていただろうか。
いや、むしろこう言おう。
彼はそのことを必要としていただろうか。


たとえば「地獄の一季節」においては、キリスト教の信仰をいかに清算するか、というような問いが重要なテーマの一つとしてあげられるだろう。
そのことを歴史的・社会的な文脈に置いてみるなら、ルナンからニーチェに至る線のどこかに位置付けることができるだろう。
だが、そうしたところで、結局のところ、ランボーの作品がよりよく理解できるようになるのか、というと、そういうことにはならないのではないか、という気にさせられる。


だから、というか何というか、早熟の天才詩人(そのことを疑う必要は毫もない)の感性に
共振することのできる読者には、理屈を超えたような強い感動というものがあるのだろう。
そんな風に、羨望を交えて思いもする。


改めてイプステギーの像であるが、これがランボーに相応しいのかどうか、なかなか難しい。
少なくとも顔はあんまり似ていない。
SF的でランボーらしいような気もするが、他の誰か(ジャリとか)のほうが向いているような気もする。
いずれにせよ、詩を書いていた頃のランボーが、後世に国家お買い上げの自分の像が立つと聞いたら、鼻で笑って、「そんな金があったら俺にくれ」というぐらいのことは言ったのではないか。
像を眺めながら、そんなことを、期待まじりに想像してみた。