えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「親殺し」翻訳

これを機会にモーパッサンの短編の翻訳をしてみようと思い立ち、
モーパッサン 『親殺し』
モーパッサンの「親殺し」を翻訳してみました。
(全国の円朝ファンに)お読みいただけましたら嬉しい限りです。
短編の翻訳はなんと7年ぶりのことであります。


この短編が『ゴーロワ』一面のトップ記事として掲載された時、これが多くの読者にとって一種の「時評文」として読まれただろうことはまちがいないだろうと、今の私は考える。
もちろん、物語としての潤色があるはずだとは、当時の読者だって思っただろう。それでも、末尾の「審理の再開は間もなくである」という言葉は、この記事が事実に基づいて書かれたものだと信じさせるに十分なものだったのではないだろうか。その前提の上に、この主人公の自己弁護の言辞を読んでいると、このテクストは当時、相応に「社会参加」するものとして読まれただろうことも推察される。
しかし一方で、自分を捨てた親への恨みの言辞をじっと読んでいると、その強い情念のありかたはいささか常軌を逸しているのではないか、という気もしてくる。彼の言説は、たとえば嗜虐的な殺戮願望を正当化して語る、1885年の「狂人」"Un fou" と、確かに一線で繋がっているのである。
だとすれば、孤児をないがしろにする社会に対する主人公の糾弾の言辞、それ自体を作者その人の間接的な意思表明と取ってしまうのは、やはりいささか皮相な見方ということになるだろう。
いずれにしても、まさしく「我々ならどうするだろうか」と、読者に対して判断することを求めるところに、モーパッサンの作家としての姿勢はよく表れているし、実際に読者によって判断には差異があるだろう。
形式・主題のどれをとっても、これは実にモーパッサンらしいと言える短編です。


脈絡のない引用を一つ。

 渡辺一夫先生のことは『序説』には書きませんでしたが、私はだんだん公表してもいいような気がしてきました。時が経てば経つほど、世の中が変る。戦争がはじまる前まではリベラルだった人が、はじまると戦争支持者になって、戦後になると自由主義者に戻って、最近また空気が変ってきたので、また変るという気配でしょう。戦前、戦中、戦後と時代と共に動いて来た人が大部分でしょう。全く変らないのは、渡辺一夫です。そういうことがどのくらいまれかということと、そのことにはどういう意味があるかということをいう価値はあると思います。
加藤周一、『「日本文学史序説」補講』、ちくま学芸文庫、2012年、274頁)