えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

なぜ傘が要るのか/テテ「歓迎されない人」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 モーパッサンの短編「傘」についての補足。

 この小説を今の目で読んでよく分からないのは、そもそもオレイユ氏はなぜ毎日職場へ傘を持って通勤しているのか、ということである。ここ数日雨が降っていたから、というわけではない。

 雨が降っていなかったのは、職場の同僚に傘をいたずらされたことに、彼が家に帰ってくるまで気づかなかったという事実に明らかである。では一体、なぜ彼は毎朝、傘を持って出かけるのか? ちなみに言えば、小説の中でモーパッサンはつねにparapluie「雨傘」と書き、ombrelle「日傘」の語は使っていない。

 私自身もまだ詳しく分かっていないのだけれど、つまり19世紀末のフランス社会では、成人男子が外出時に、いわばステッキの代わりに傘を持つということがある程度(どの程度かが問題だが)一般的だったのである。当時は男性用でも en tout cas と呼ばれる晴雨兼用傘が存在したようなので、オレイユ氏の傘もそのようなものだったと推測される。

 試しに『19世紀ラルース』を開いてみると、次のような記述に行き当たる。

Dans les  dernières années de l'Empire, la mode de l'ombrelle s'est étendue aux hommes. Des petits crevés (antérieurement appelés gandins et postérieurement gommeux) qui, les premiers, arborèrent l'ombrelle sur les trottoirs des boulevards et aux champs de courses, l'usage s'en répandit peu à peu parmi les gens sanguins et apoplectiques, mais il est douteux qu'il se généralise sous nos latitudes.
  Le parapluie est le symbole de la vie tranquille et paisible. C'est l'instrument de l'homme rangé, soigneux, du bourgeois, de M. Prudhomme. Quand on veut représenter le type du calme, de la médiocrité et de la bonhomie, il suffit de peindre un homme portant sous son bras un parapluie bien solide, bien solennel, un riflard bien conditionné.

(L'article de parapluie dans le Grand Dictionnaire universel du XIXe siècle, t. XII, p. 198.)

 

第二帝政の最後の数年の間に、日傘の流行は男性にも広まった。「プチ・クルヴェ」(それ以前には「ガンダン」、以後には「ゴムー」と呼ばれた)洒落た若者たちが最初に、歩道や競馬場で日傘を見せびらかすと、少しずつ、多血質や卒中質の者たちにも広まっていった。とはいえ我々の気候のもとでそれが一般化するかどうかは疑わしい。

 雨傘は静かで穏やかな生活の象徴である。それは生活に不自由がなく、注意深いブルジョア男性、いわばプリュドム氏の用具である。平静、凡庸、善良さの典型を表現したい時には、一人の男性の脇の下に、頑丈で堂々として、しっかりとした雨傘を持たせれば十分である。

(『19世紀ラルース』、「雨傘」の項目)

  後半の記述は我らがオレイユ氏にも当てはまるものだろう。毎朝傘を持って通勤するオレイユ氏の姿はそれ自体、平穏を好むブルジョア男性の典型、あるいはその諷刺画を意味するものだということである。

 そういえば、「ブルジョアの王」を自称したルイ・フィリップは、外出時に王杖の代わりに傘を持ったことで知られ(そして諷刺され)たのであった。淵源はそのあたりにあると見てよいだろう。以上、ささやかな補足事項。

 

 Tété とZazは、今の日本でも売れる(貴重な)フランス人若手歌手の代表的存在といえるだろう。Tétéはもう9度も来日しているらしい。しかし彼の歌を聴いていると、むしろフランス人だけども全然フランス的でないからこそ、日本でも売れるのではないかと思わなくはない。ま、それはともかく、2016年に発表されたアルバム Les Chroniques de Pierrot Lunaire『ピエロ・リュネール氏の半生』から、"Persona non grata" を。スランプに陥った歌手の煩悶。

www.youtube.com

Persona non grata

Ma plume ne veut plus de moi

Persona non grata

Page blanche du trépas

 

Persona non grata

Pour qui donc sonne ce glas ?

Persona non grata

Me reprendre je dois

 

Ou sous peu c'est Pôle Emploi

Me reprendre je dois

 

歓迎されない人

ぼくのペンはもうぼくを見放した

歓迎されない人

死を語る真っ白なページ

 

歓迎されない人

誰がために鐘は鳴る

歓迎されない人

しっかりしよう、そうしなきゃ

 

でないとすぐにも職業安定所行き

しっかりしよう、そうしなきゃ

(「歓迎されない人」、國枝孝弘訳)

  書くことが出来ない真っ白なページを前にした苦悩、というので思わずマラルメを思い出す。まあ思い出さなくていいのだろうけれど。

 

 最後に、いつものように脈略のない引用。

 近代市民社会の成員たちは、「私人」と「公民」の二つのありように分裂している。そして、私人であることの方が本来的なあり方だと、ぼくたち自身も深く信じています。マルクスは「それはおかしいのではないか」と言うのです。「自分さえよければそれでいいが、いろいろうるさいから法律には従う」というような人間を作り出すために人類は営々と努力してきたわけではないだろう。人間が真に解放されるというのは、そういうことではないだろう、と。

 一人の人間が公私に分裂していることもおかしいし、分裂したうちの「より利己的な方」が本態で、「より非利己的=公共的な方」が仮の姿というのも、おかしい。そうじゃなくて、真に解放された人間というものがあるとすれば、それは分裂してもいないし、隣人や共同体全体をつねに配慮し、そのことを心からの喜びとしているはずである。そういう人間が今どこかにいるということではなくて、論理的に言って、そういう人間がめざされなければならないのではないかとマルクスは言うのです。

 マルクスはそれを「類的存在」と呼びます。

内田樹「『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』」、内田樹石川康宏『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』、かもがわ出版。2010年、91頁)