えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「散歩」、あるいは人生の空虚/テテ「君の人生のサウンドトラック」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「散歩」は1884年5月、『ジル・ブラース』に掲載された作品。

 40年間、実直に会社に勤めていた男性、ルラが、ある春の宵、陽気に誘われるようにして街に出る。凱旋門の近くの店のテラス席で食事をとり、さらにブーローニュの森まで散歩することに決める。行き交う馬車にはどれも愛しあう恋人たちの姿……。

 作品集『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』の中で一番暗い、いやモーパッサンの作品全体においても相当暗い部類に入るこの作品は、しかしこの作品集で一番の問題作だと言えるだろう。

 「散歩」は極めてパスカル的な作品である。パスカルによるならば、我々は皆「気晴らし」にうつつを抜かすことで、行く末には死あるのみという自分たちの宿命から目を逸らしつづけている。この作品の主人公のルラ氏は、まさしくその「気晴らし」の最中において、いささか逆説的なことにも、この先の人生が空虚でしかないことを悟るのである。パスカルならばそこで神に帰依せよ、ということになるだろうが、神なき時代の19世紀末に、そのような道は残されてはいない。人生が虚無であるという「真実」の残酷さに耐えられないルラ氏に残された方途は、みずから死を選ぶことにしかない。

 翌日、死体が発見された後、作品は次の言葉で終わっている。

 死因は自殺であるとの結論が出たものの、その原因については皆目わからなかった。あるいは、にわかに狂気の発作にみまわれたのであろうか?

(「散歩」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年、199頁)

 それまで平穏に暮らしてきた人間が突然に自死を遂げれば、その理由を理解できないその他の人間にとっては「気がふれた」と見なされることだろう。だがここで作者が暗に言わんとしていることとはもちろん、この「狂気」こそがあるいは真の「明晰さ」ではないのか、という問い掛けである。

 『雨傘』と同じ新聞紙面に、笑劇とまったく並列的にこのような作品もぽんぽんと掲載してみせたところに、モーパッサンという作家の特異さがあるだろう。普通に考えれば、このような暗い作品は新聞読者に喜ばれるような種類のものではない。矢継ぎ早に発表した短編作品、そして『女の一生』の成功によって、この時期のモーパッサンは新聞紙面に好きなことを書けるフリーハンドを手にしていたからこそ、こういう作品を発表することもできたわけだが、言い換えれば、ここには読者におもねらない、自立した作家としてのモーパッサンがいると言えるだろう。

 

 テテについては挙げたい曲は幾つもあるが、気分を盛り上げるために、今日はとりわけ元気のいい曲を挙げておこう。たとえ、それでは「気晴らし」に埋没することになるのだとしても。

 2013年のアルバム Nu là-bas 『裸のままで』所収の「君の人生のサウンドトラック」。

www.youtube.com

Le bon refrain au bon moment

La bande son de ta vie

Un goût de rien

Si fort pourtant

La bande son de ta,

De ta vie 

("La Bande son de ta vie")

 

心地よいタイミングの 心地よいリフレイン

君の人生のサウンドトラック

“無” の味がする

こんなに強烈なのに……

君のサウンドトラック、

君の人生の……

(「君の人生のサウンドトラック」、西中コイック百合子訳)

 

 例によってなんの脈略もない引用。

 井伏君の「貸間あり」には描写はないというような乱暴な言葉を使ったが、描写という言葉は、所謂リアリズム小説の誕生以来、小説家の意識にずい分乱暴を働いて来たのである。ハイ・ファイという言葉がある。言うまでもなくハイ・フィデリティの略語で、現物再現の効率の高さを誇る意味合に由来する語であろうが、文学上のリアリズムとは、或る作家の一種の人生観を指すのが本義であって、現物再現の技術の意味は附けたりだ。モーパッサンのリアリズムの本義に比べれば、附けたりばかりが派手に拡がって了ったものだ。ハイ・ファイという便利な言葉が出来たのなら、例えば、カメラのリアリズムというような曖昧な言葉は止めにして、カメラのハイ・ファイという事にしてはどうか。

小林秀雄「井伏君の「貸間あり」」、『考えるヒント』、文春文庫、2009年新装版第9刷、38-39頁)