えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『空飛ぶ馬』とフランス文学

『空飛ぶ馬』表紙

 北村薫のいわゆる「円紫さんと私」シリーズは、今年で登場以来30年になるが、今も人気のある作品であることは言うまでもない。語り手の「私」、探偵役の落語家春桜亭円紫をはじめとした登場人物がいずれも生き生きと描かれていることはもちろん、この作品において「謎」とは人の「心」が生み出すものであり、そうである以上、「謎」の解明はおのずから明るい面、暗い面を含めた人の「心」の機微に光を当てることである、という作者の揺るぎない確信が、ミステリーという形式の内において人間を描くことを見事に可能にしている。そしてそのようにして多様な人々の「心」に触れることが、「私」の成長と密接に関わっているのであり、巻を追う中でその語り手の成長過程を辿れることも、読者にとって大きな喜びの理由の一つだろう。

 ところで、その最初の巻である

 北村薫『空飛ぶ馬』、創元推理文庫、1994年

を改めて開いてみると、あちこちにフランス文学への言及が散りばめられていることに気づかされる。登場時の「私」は大学2年生、2巻以降で日文科に進み、芥川で卒論を書くことになるわけだが、フランス文学も実によく読んでいるのである。もちろん「私」が読むのはフランス文学だけではなく、日本文学、イギリス文学と色々あるのだけれど、それでもフランスの作家の作品がとりわけ目立つのは確かである。

 そこでここでは、作家と作品へのオマージュの意を込めながら、その言及を一つずつ確認してみたい。

 まずは「織部の霊」、巻頭、3頁目からすでに目に飛び込んでくる。

ちなみに私の趣味は文学部の学生らしく古本屋まわりである。昨日手に取ったのは昭和四年版新潮社の世界文学全集。フランソワ・コッペの『獅子の爪』を読んで、しおらしい気持ちになったりしていた。

北村薫『空飛ぶ馬』、創元推理文庫、1994年、11頁。以下、頁数のみ記述。)

 最初からこれなのだから、「私」の読書家ぶりは本物だ。出典は、

 世界文學全集第36巻、『近代短篇小説集』、新潮社、1929年

の中のフランンソワ・コッペ「獅子の爪」、内藤濯訳、38-46頁。高級娼婦の母は娘の玉の輿を狙っているが、その娘オルガ・ババリイヌに恋した海軍大尉ジュリアン・ド・レが彼女に思いを打ち明けるも、彼女は毅然とした態度で拒絶する、という、いささかロチを思わせるようなロマンチックな物語だ。

 なお「私」は、曇ったガラス窓に「ちょっと下がった指先で L'histoire--歴史といたずら書きをした」(13頁)りするが、美味しいコーヒーを入れてくれた加茂先生の言葉に対して。

「うまいと、つい飲み過ぎてしまうんですよ。本当に自分で心配になるくらいです。きりがない。それで困ります」

 バルザックのように、と追い掛けそうになって何となく生意気なような気がしてやめた。

(20頁)

  バルザックは19世紀の文豪にして近代小説の生みの親。濃いコーヒーをがぶ飲みして徹夜で小説を書きまくった、というのはその筋では有名な逸話。

 次は2話目の「砂糖合戦」。

 私はちょっと離れたところに立ち、バッグから文庫本の『ブヴァールとペキュシェ』を取り出した。

(118頁)

こういうさりげない言及が、分かっている者には嬉しいものですね。文庫本とある以上、

 フロベールブヴァールとペキュシェ』、鈴木健郎訳、岩波文庫、上中下巻、1954-55年

に違いないだろう。フロベールでも『ボヴァリー夫人』、『感情教育』ではなく、『ブヴァール』という「通ぶり」ににやりとさせられるところ。

 「胡桃の中の鳥」には横光利一『寝園』の中の「じゅ てえーむ……じゅてえーむ こむ じゅ てえーむ」(150頁)というフランス語が取り上げられている。また、女の子の「ママン」という呼び声に「フランス語の《ママン》ではない」(164頁)という注釈もついている。こんな風にフランス語に反応してしまうところに、興味をもって第二外国語を学んでいる大学生らしさが表れている。

 夜に宿屋で正ちゃん、江美ちゃんとお酒を飲む場面は、本作の中でもっとも印象深いシーンの一つであるが、そこでもフランス文学が大事な役を担っているところが、なんとも憎らしい。少し長いけれど引用させて頂きます。

 「何せね、ヨーロッパじゃあ女にも魂があるかっていうのは公会議の議題になって、結局多数決で決めたんだってさ」

 「どっちになったの?」

 江美ちゃんが聞く。

 「女にも魂はある! めでたしめでたし」

 「何で読んだの?」

 「アナトール・フランス。『エピクロスの園』」

(179頁)

  出典は、アナトール・フランスエピクロスの園』、大塚幸男訳、岩波文庫、1974年

の中の「エリュシオンの野にて」。せっかくなのでこちらも引用。

 マコン[パリの東南約四百キロにある町]の公会議の出席者の一人であった神父が彼に答えた。

 ――プラトンよ、そのお言葉は偶像崇拝者の言です。マコンの公会議は、五八五年に、多数決で、女に不滅の霊魂があることを認めたのです。それに、女は人なのです。処女から生まれ給うたイエス・キリストは、福音書の中で「人の子」と呼ばれているのですから。

(『エピクロスの園』、147頁)

フランスは今では読まれることの少なくなった作家。『エピクロスの園』は、懐疑主義、ニヒリスム、相対主義に溢れた哲学的エッセー。読んでみると、その犀利なエスプリが、芥川龍之介に影響を与えたのが頷かれるような作品である。

 同じ場面で引き続いて、さらに重要な言及が見られる。引用しますが、乞うご容赦。

  「――世の中の人は、男のペダンティスムは許してくれる。老人の醜さを許すように。でも《女》にはそのどっちも許さない」

 江美ちゃんが、にこっとした。

 「うまいわね」

 私は布団の上で、パジャマの両手を後ろについて続けた。雲の上に座っているようだった。

 「――アルベール・ティボーデ」

(181頁)

言及はこれだけである。さてこの出典は何か? いささか憚られるようだけれども、明かさせていただきたい。

世間では男にはペダンティスムを大目に見てくれるものだ。ちょうど老人に醜を許してくれるのと同じである。ところで、女のひとにはこのどちらも許してはくれない。

(アルベール・ティボーデ『小説の美学』、生島遼一訳、人文書院、1967年初版、1976年重版、「小説の読者」、36頁)

ティボーデは20世紀初頭の文芸批評家、ベルクソンの弟子筋にあたる人。主に19世紀フランス小説を対象に小説を論じたこのような本まで「私」は読んでいる、ということに胸打たれるが、それ以上に、このような箇所を記憶に留めていて、それを作品の内容と密接に結びついた形で利用できる作者の慧眼と腕前にはため息が出るばかり。

 「赤頭巾」の冒頭、歯のかぶせ物が取れてしまった場面。

 天井まである大きな硝子窓を通して、右から左へ流れる人の流れをぼんやり眺める。目には映っているのだが神経は歯に行っている。舌で探ると余計にしみる。それでいて、ぽっかりと空いた穴を探らないわけにいかないのは、我ながら真に不思議である。ヴィリエ・ド・リラダンの傑作、『残酷物語』中の貴公子ポートランド公爵リチャードのことが頭に浮かんだ。猛悪な伝染性の病いを伝えるこの世で最後の患者に会い、思わず手を触れずにいられなかった美貌の青年である。

 それはともかく、このままにしておいたらこっちも相当な『残酷物語』になりそうである。

(217頁)

 と、これまた憎い使い方であることよ。筑摩叢書版、あるいは全集版もあるが、

 リラダン『殘酷物語』、斎藤磯雄譯、新潮文庫、1954年

所収の「ポオトランド公爵」、88-97頁で「私」は読んだろうか。ポオトランド公爵は自らも病に罹り、人を遠ざけて城館に閉じこもるが、臨終間際、恋人のヘレナが身を賭してやって来る。

 砂の上で、とある石の上に肱を凭せ、絶えず、致死の戦慄に顫へながら、神秘の覆面をつけた男は、外套のなかに身を横たへてゐた。

 ――おお不幸な方!(と、帽子もかぶらず、男の傍らに馳せつけた時、幻の女は、顔を掩ひ、嗚咽にむせびながら、叫んだ。)

 ――お別れだ! 永久に!(と男は應へた。)

 逈か彼方、封建時代の城館の地下室からは、歌聲や哄笑が聞え、城館の飾燈は波濤に反映して搖蕩ひ動いてゐた。

 ――そなたは自由の身となつだのだ!……(再び石の上に頭を落しながら男は附け加へた。)

 ――御身は解放されたのです!(と、星を鏤めた空の方へ、はや物言はぬ男の視線のまへに、小さな黄金の十字架を翳しながら、白い幻の女は答へた。)

(『殘酷物語』、94頁)

という、大仰であるがなんともロマンチックな物語。最初の「獅子の爪」のオルガや、このヘレナのような、高潔で誇り高い女性が登場する作品への言及の内に、あるいは「私」の心情を垣間見れるように思うのは、うがち過ぎだろうか。

 それはともかく、『未来のイヴ』(光文社古典新訳文庫)が出た今、『残酷物語』はぜひとも新訳の刊行を期待したい作品の一つである。

 次は、「私」は一日一冊本を読むという計画を実践しているという話の流れで、でも『アンナ・カレーニナ』は一週間がかりで読んだといい、

 ところで『アンナ』の充実感といったらなかった。古典の中でも『アンナ』やら『従妹ベット』やらの質量共に巨大な作品を読むと、愛すべき珠玉篇に触れた時とはまた違った意味で、小説の中の小説という言葉が自然に浮かぶ。そして生きていてよかったと心底思うのである。

(221頁)

は、古典愛読者にはなんとも嬉しい言葉。

 バルザック『従妹ベット』、水野亮訳、岩波文庫、上下巻、1950年

は、『従兄ポンス』(水野亮訳、岩波文庫、上下巻、1970年改版)とともに、バルザック晩年の傑作。岩波重版も願いたいが、これもぜひ新訳の文庫参入を期待したい作品。

 先の引用は、次のように続いている。

 分からないのは例えばヘンリー・ジェイムズ。他では手に入らないからということで買った古い文学全集版で『ロデリック・ハドソン』をやはりこの冬読んだ。正直これにはまいった。三段組の細かい活字を殆ど意地になって読み通し、いい筈の目がしばらく仮性近視気味になった。あれだけ評価の高い作家である。私が間違っているのだろう。現に大学生になって読み返した時には震えるほどだったリラダンの、神の手になるような作品『ヴェラ』でさえ、高校生の時には何とも感じなかったのだから。

(221頁)

リラダン」は正しくは「ヴィリエ・ド・リラダン」丸ごとが姓であるが、それはともかく「ヴェラ」も『残酷物語』所収の短編。ただし有名なので各種アンソロジーでも読めるだろう。ついでにいえば、

 『リイルアダン短篇集』、辰野隆選、岩波文庫、上巻、1952年

にも、「ヴェエラ」、鈴木信太郎譯が入っている(29-45頁)。

 フランス文学ではないが、241頁にはマルシーリオ・フィチーノの『恋の形而上学』が登場。15世紀イタリア・ルネサンス人文主義者。16世紀のフランス文学にも大きな影響を与えた、プラトニック・ラブの出所の書だ。

ペローの『赤頭巾』などは明らかに男と女の譬えになっているそうです。

(274頁)

の台詞からは「私」が読んだかどうかは判別できない。翻訳は色々あると思うが、文庫であればやはり、

 『完訳 ペロー童話集』、新倉朗子訳、岩波文庫、1982年

が手近だろうか。シャルル・ペローは17世紀の文学者。民話を元にした「童話集」には「赤ずきんちゃん」の他に、「眠れる森の美女」「青ひげ」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン(シンデレラ)」などが含まれている。

 さて、ようやく最後まで来た。最終話「空飛ぶ馬」ではアンデルセンやグリムの童話が話題になるが、フランス文学も一か所だけ登場する。

 ほうっと息をつきたくなるような気持ちで、私はドアのところから、しばらく二人を眺めていた。それから、『カストロの尼』を取り出して読み始めた。

(297頁)

 スタンダールカストロの尼 他二篇』、桑原武夫訳、岩波文庫、1956年

 スタンダールカストロの尼』、宗左近訳、角川文庫、1970年、1990年再版

あたりか。「十六世紀イタリアを舞台に、山賊の青年隊長と美貌の尼僧との灼熱の恋を描く傑作」というのが岩波の帯の惹句。

 これで、バルザックスタンダールフロベールという大物に加え、コペ(コッペ)、ヴィリエ・ド・リラダン、フランスと、計6人の19世紀の作家、それにペローとティボーデを加えたぜんぶで8人のフランス作家が、『空飛ぶ馬』を構成する5つの短編の内に登場している、ということになる。すべての短編に誰かが登場しているという辺り、作者の周到な計算と見て間違いないのではないだろうか。かように「私」の読書には、主に19世紀のフランスの作家が大きな位置を占めていたのである。

 北村薫は1949年生まれ、1989年に登場した「私」がその年に二十歳を迎えたとすれば、彼女は1969年生まれという計算になり、作者より20歳下と考えられる。「私」の読書の中身は実際のところ、作者その人の経験を大きく反映しているに違いないだろうから、70年代の仏文寄りの文学青年の読書内容としては、あるいはこのぐらいに読んでいる人たちは少なくなかったのかもしれない。もっとも、90年代にあってここまでの読書好きの数は、実際のところは少なくなっていただろうが、いずれにしても、この『空飛ぶ馬』一冊の内に、戦後日本に咲き誇った翻訳文化が確かに息づいているという事実を確認することに、私は大きな喜びを感じるのである。

 全国の「円紫さんと私」シリーズ愛読者の方々が、ぜひこの作品をきっかけに、古典読書の道へ歩みだされることを願って、新年最初の稿を閉じることとしたい。

 慶賀新年。本年もどうぞよろしくお願いいたします。