えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「恐怖」(1884)翻訳/Zaz「何が起きようと我が道を行く」

『フィガロ』1884年7月25日

 久方ぶりにモーパッサンの翻訳をする。

モーパッサン 「恐怖」(1884)

 昨年の秋にモーパッサン幻想小説について発表する機会があり、その余波で「さらば、神秘よ」を訳し、今回は「恐怖」(1884)を訳した。まるで15年ぶりくらいにようやく宿題を提出したような気分だ。

 大学生の頃に初めてこのテクストを読んだ時には、よく意味が分からなかった。「小説」の中にいきなりトゥルゲーネフの回想が出てくる。そうするとこの語り手「私」はモーパッサン自身ということになるはずだが、しかし列車の中で出会った老人の語る内容というのも作者自身の思想のように思われる。だとするとノンフィクションとも言い難い。中途半端な生煮えのようなこれは一体何なんだろうかと、いぶかったものだった。

 後に分かったことは、そもそもこの一文は新聞紙面を飾るクロニック(時評文)として書かれたものである、という事実だった。そしてこの同じクロニックという枠組みの中で、ある時は社会批評、ある時は純然たるフィクションが書かれるが、それが同じ枠組みの中にある以上、恐らく作者自身はフィクションとノンフィクションを厳密に区別してなどいなかったのである。この「恐怖」というテクストは、そのような文章の性質の曖昧さを特別にはっきりと示している事例だったのだ。

 すべては書き手モーパッサン(あるいは筆名モーフリニューズ)の語る「お話」である(そうでしかない)。一切は書き手の主観による「語り」であるという前提の上では、事実か想像かという区別などは二次的なものでしかない。それが、19世紀後半の新聞という媒体に書くという経験を通して、モーパッサンが理解した「真実」だった。すべては言葉でしかない。そこにおいて事実か否かを決定することなど誰にもできないし、そんなことは(実は)誰も必要としていない。判断基準はただ、本当らしく見えるか、信じられるか否かであり、それを決定するのは、ひとえに語り手の技術である。

 これは、事実報道という観点からすれば、当時の新聞の言説に対してモーパッサンが懐疑的・批判的であったということを意味するだろう。そこでは何も「本当」であることは担保されていないのだから。だが作家としての彼にとってみれば、そのような新聞という言説の場は、自分の力量さえあれば、自分の言葉を、自分の物語を、その「実在」を、読者に「信じさせる」ことが可能になるという、ある意味では特権的な場であった。

 今の私にとってモーパッサンという作家の言説が特別だと感じる理由の多くは、彼が当時の新聞という媒体の特殊性を洞察した上で執筆していた、というその事実(と私は考えるのだけれど)、そしてその結果として書かれたテクストの持つ「力」の内にあると言ってよい。

 そこから先にも思索は続くのであるが、とりあえず今はここまでにとどめよう。以上のような次第で、「恐怖」(1884)は、恐怖・怪奇に関わるその思想的内容とは別の次元で、私にとってとても重要な意義を持つテクストの一つであり、それを訳せてよかったなあ、と、まあ、そういう次第であります。

 お読みくださる人がいらっしゃいますようにと祈りつつ。

 

 Zaz ザーズ、2018年の新作はEffet miroir、日本版は『エフェ・ミロワール ~心、重ねて』。2曲目の"Qué vendrá"「何が起きようと我が道を行く」。ルフランのみスペイン語

www.youtube.com

Qué vendrá qué vendrá

Yo escribo mi camino

Si me pierdo es que ya me he encontrado

Y sé que debo continuar

("Effet miroir")

 

そしてどうなるの?

自分が歩む道を思い描く

見失っても大丈夫

ただひたすら歩けばいい

(「何が起きようと我が道を行く」、古田由紀子訳)