えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

なぜ傘が要るのか/テテ「歓迎されない人」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 モーパッサンの短編「傘」についての補足。

 この小説を今の目で読んでよく分からないのは、そもそもオレイユ氏はなぜ毎日職場へ傘を持って通勤しているのか、ということである。ここ数日雨が降っていたから、というわけではない。

 雨が降っていなかったのは、職場の同僚に傘をいたずらされたことに、彼が家に帰ってくるまで気づかなかったという事実に明らかである。では一体、なぜ彼は毎朝、傘を持って出かけるのか? ちなみに言えば、小説の中でモーパッサンはつねにparapluie「雨傘」と書き、ombrelle「日傘」の語は使っていない。

 私自身もまだ詳しく分かっていないのだけれど、つまり19世紀末のフランス社会では、成人男子が外出時に、いわばステッキの代わりに傘を持つということがある程度(どの程度かが問題だが)一般的だったのである。当時は男性用でも en tout cas と呼ばれる晴雨兼用傘が存在したようなので、オレイユ氏の傘もそのようなものだったと推測される。

 試しに『19世紀ラルース』を開いてみると、次のような記述に行き当たる。

Dans les  dernières années de l'Empire, la mode de l'ombrelle s'est étendue aux hommes. Des petits crevés (antérieurement appelés gandins et postérieurement gommeux) qui, les premiers, arborèrent l'ombrelle sur les trottoirs des boulevards et aux champs de courses, l'usage s'en répandit peu à peu parmi les gens sanguins et apoplectiques, mais il est douteux qu'il se généralise sous nos latitudes.
  Le parapluie est le symbole de la vie tranquille et paisible. C'est l'instrument de l'homme rangé, soigneux, du bourgeois, de M. Prudhomme. Quand on veut représenter le type du calme, de la médiocrité et de la bonhomie, il suffit de peindre un homme portant sous son bras un parapluie bien solide, bien solennel, un riflard bien conditionné.

(L'article de parapluie dans le Grand Dictionnaire universel du XIXe siècle, t. XII, p. 198.)

 

第二帝政の最後の数年の間に、日傘の流行は男性にも広まった。「プチ・クルヴェ」(それ以前には「ガンダン」、以後には「ゴムー」と呼ばれた)洒落た若者たちが最初に、歩道や競馬場で日傘を見せびらかすと、少しずつ、多血質や卒中質の者たちにも広まっていった。とはいえ我々の気候のもとでそれが一般化するかどうかは疑わしい。

 雨傘は静かで穏やかな生活の象徴である。それは生活に不自由がなく、注意深いブルジョア男性、いわばプリュドム氏の用具である。平静、凡庸、善良さの典型を表現したい時には、一人の男性の脇の下に、頑丈で堂々として、しっかりとした雨傘を持たせれば十分である。

(『19世紀ラルース』、「雨傘」の項目)

  後半の記述は我らがオレイユ氏にも当てはまるものだろう。毎朝傘を持って通勤するオレイユ氏の姿はそれ自体、平穏を好むブルジョア男性の典型、あるいはその諷刺画を意味するものだということである。

 そういえば、「ブルジョアの王」を自称したルイ・フィリップは、外出時に王杖の代わりに傘を持ったことで知られ(そして諷刺され)たのであった。淵源はそのあたりにあると見てよいだろう。以上、ささやかな補足事項。

 

 Tété とZazは、今の日本でも売れる(貴重な)フランス人若手歌手の代表的存在といえるだろう。Tétéはもう9度も来日しているらしい。しかし彼の歌を聴いていると、むしろフランス人だけども全然フランス的でないからこそ、日本でも売れるのではないかと思わなくはない。ま、それはともかく、2016年に発表されたアルバム Les Chroniques de Pierrot Lunaire『ピエロ・リュネール氏の半生』から、"Persona non grata" を。スランプに陥った歌手の煩悶。

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Persona non grata

Ma plume ne veut plus de moi

Persona non grata

Page blanche du trépas

 

Persona non grata

Pour qui donc sonne ce glas ?

Persona non grata

Me reprendre je dois

 

Ou sous peu c'est Pôle Emploi

Me reprendre je dois

 

歓迎されない人

ぼくのペンはもうぼくを見放した

歓迎されない人

死を語る真っ白なページ

 

歓迎されない人

誰がために鐘は鳴る

歓迎されない人

しっかりしよう、そうしなきゃ

 

でないとすぐにも職業安定所行き

しっかりしよう、そうしなきゃ

(「歓迎されない人」、國枝孝弘訳)

  書くことが出来ない真っ白なページを前にした苦悩、というので思わずマラルメを思い出す。まあ思い出さなくていいのだろうけれど。

 

 最後に、いつものように脈略のない引用。

 近代市民社会の成員たちは、「私人」と「公民」の二つのありように分裂している。そして、私人であることの方が本来的なあり方だと、ぼくたち自身も深く信じています。マルクスは「それはおかしいのではないか」と言うのです。「自分さえよければそれでいいが、いろいろうるさいから法律には従う」というような人間を作り出すために人類は営々と努力してきたわけではないだろう。人間が真に解放されるというのは、そういうことではないだろう、と。

 一人の人間が公私に分裂していることもおかしいし、分裂したうちの「より利己的な方」が本態で、「より非利己的=公共的な方」が仮の姿というのも、おかしい。そうじゃなくて、真に解放された人間というものがあるとすれば、それは分裂してもいないし、隣人や共同体全体をつねに配慮し、そのことを心からの喜びとしているはずである。そういう人間が今どこかにいるということではなくて、論理的に言って、そういう人間がめざされなければならないのではないかとマルクスは言うのです。

 マルクスはそれを「類的存在」と呼びます。

内田樹「『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』」、内田樹石川康宏『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』、かもがわ出版。2010年、91頁)

 

「雨傘」、あるいは吝嗇/フランス・ギャル「もちろん」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「雨傘」は1884年の作。かつて岩波文庫に杉捷夫訳で入っていたので、日本でもよく知られた短編の一つであろう。吝嗇はノルマンディー人の特徴の一つとして農民を扱った作品に見られるテーマであるが、ここではそれが、都会に住む小市民の心性として描かれている。

 オレイユ夫人はしまり屋だった。わずかな金のありがたみをよく知っていたし、金をふやす秘訣もあれこれ心得ていた。女中がなかなか買い物の金をちょろまかせなかったのはむろんのこと、夫のオレイユ氏にしても、小遣いをもらうのがひと苦労だった。とはいえ、暮らし向きが逼迫しているわけではないし、子どもがいるわけではもなかった。にもかかわらず、手もとから現金が出ていくのを見るのが、オレイユ夫人にはたまらなくつらいのだ。まるで胸が引き裂かれるような思いがした。大きな出費があったりすると、それがやむを得ない物入りであるにせよ、その晩はおちおち眠ることができない始末だった。

(「雨傘」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、164頁)

 モーパッサンはしばしば人間の性癖を生理的な次元で語ってみせるが、それによって、その性質がいかにも抑えがたく不可避のものであることを効果的に印象づける。「十八フランを惜しむ気持ちが生傷のようにうずいた」(173頁)というような表現も同様であろう。オレイユ夫人が我々に見せるのは、確かに卑小で笑うべき欲望ではあるのだが、そうは言っても、それが彼女の生に根源的に結びついていることを、我々は疑うことはきない。この作品は決して内容の重たくない笑劇的なものであるが、その滑稽さの裏には一抹の悲哀のようなものが隠れていないだろうか。

 それはともかく、小心なオレイユ夫人がなんとか雨傘の修理代を引き出そうと保険会社に出かけてゆくと、そこでは男たちが数十万フランの金額をやりとりしているという場面はしみじみおかしい。確かにこの短編には、最良のモーパッサンが認められるだろう。

 

 日本ではイエイエ時代のみが知られているフランス・ギャルは、フランスではミッシェル・ベルジェと一緒になってからこそが重視されている云々。1987年『ババカール』所収の一曲、"Évidemment"「もちろん」。ダニエル・バラヴォワーヌ追悼の思いを込めて作られた曲という。

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Évidemment
Évidemment
On danse encore
Sur les accords
Qu'on aimait tant

Évidemment
Évidemment
On rit encore
Pour les bêtises
Comme des enfants
Mais pas comme avant
("Évidemment")
 
もちろん
もちろん
まだ踊るわ
あんなに好きだった
和音に乗せて
 
もちろん
もちろん
まだ笑うわ
おかしなことを
子どもたちのように
でも以前のようにではなく
(「もちろん」)

 

 今日も脈略のない引用を一つ。

 都会にいるときに不快を減じるためにできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。

 私たちが雲を観て飽きることがないのは、それが風に流れて、形を変えて、一瞬も同じものにとどまらないにもかかわらず、それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、諧調があり、秩序があることを感知するからである。雲を観る人間は、空間的現象としての雲の動きを一種の「音楽」として、つまり時間的な表象形式の中に読んでいるのである。

 海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、嵐に揺れる竹のしなりをみつめるのも、雪が降り積むのをみつめるのも、すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。

 その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。

内田樹『態度が悪くてすみません ――内なる「他者」との出会い』、角川oneテーマ21、2006年、29-30頁)

 

「ローズ」、あるいは女の欲望/「抵抗せよ」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「ローズ」(1884)は初読時には面白く読めるが、再読、三読時にはあれこれと弱さが目につく作品である。合理性や本当らしさに欠けるのは否めまい。

 冒頭はカンヌの花祭りにおける花合戦の情景が描かれているが、プレイヤッド版の注釈によれば、1884年には1月24日に行われており、この短編の初出は『ジル・ブラース』1月29日付であるから、これは完全な時事ネタであった。主題となる事件がいかにも三面記事的なことと合わせて、これはモーパッサンが新聞という媒体に見事に適合する中で書かれた「新聞小説」の一例と言えるだろう。

 その主題であるが、ここでモーパッサンは、「欲望されることを欲望する」という女性の欲望のありように注目している。本作の主筋は、女主人が何もかもを任せていた小間使いになりすましていた男が、実は婦女暴行犯にして脱獄囚だったというものである。そのような男に着替えも任せていた(そして自分は無事だった)ということに、女主人は「屈辱を受けたよう」に感じる、というところが肝であり、そのような際どい主題を新聞紙上で取り上げてみせたところに作者の「大胆さ」を指摘してよいかもしれない(あくまで当時の視点に立っての話だが)。

 しかしながら、女性二人の対話を描き(その中で上記のような告白をさせてい)ながら、モーパッサンが次のように書く時、

「ほんとうよ。じゃあ、わたしの経験した奇妙な出来事をお話しするわ。そんな目に遭うと、女の心というのがいかに不可解で、不思議なものかってことが、よくわかるんじゃないかしら」

(『脂肪の塊・ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年、154頁)

  ここには「眺める男性」の視点が露わになっているようであり、そのことが私にはいささか気にかかるのである。テクストは、誰が誰にむけて語っているのだろうか?

 それとも(やはり)「女の心」は女にとっても時に謎であるのだろうか?

 

 2015年、フランス・ギャル作のミュージカル Résiste 『抵抗せよ』の公演が行われた。ミッシェル・ベルジェ作詞作曲の歌曲で構成されたもの。そのタイトル曲のクリップ。

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Résiste

Prouve que tu existes

Cherche ton bonheur partout, va,

Refuse ce monde égoïste

Résiste

Suis ton cœur qui insiste

Ce monde n’est pas le tien, viens,

Bats-toi, signe et persiste

Résiste

("Résiste")

 

抵抗しなさい

あなたが存在していると証明しなさい

至るところに幸福を探しなさい さあ

このエゴイスティックな世界を拒みなさい

抵抗しなさい

あきらめない自分の心に従いなさい

この世界はあなたのものじゃない さあ

戦いなさい 署名し、続けなさい

抵抗しなさい

(「抵抗せよ」)

  文学にかじりつくことは、功利主義的な世の中に対する「抵抗」の方途だと、そんなことを内心密かに思っていた20代の頃のことを、このビデオを観ていてふと思い返した。時は流れるものだ。否応もなく。

 

最後に、脈略のまったくないわけでもない引用を一つ。

 私たちは現実の「私」のままでは、物語の中に踏み入ることができない。むしろ、物語を読むことの最大の愉悦は、私たちが「それと知らずに」、私自身であることを止めて、登場人物に「憑依」されてしまうことによってもたらされる。

 初老の男性である私が、それにもかかわらず『あしながおじさん』を読みつつ、ジェルーシャの身になってジャーヴィーとのやりとりにときめくことができるのは、読みつつある私が少女であることの愉悦を身体的に実感しているからである。テクストを読むということは、そのように違法なほどに想像的でありながら、リアルに身体的な経験である。

内田樹『女は何を欲望するか?』、角川oneテーマ21、2008年、74頁)

 

「マドモワゼル・フィフィ」、あるいは男女の闘争/Kyo「聖杯」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「マドモワゼル・フィフィ」は1882年の作で、「脂肪の塊」に次いで、娼婦と戦争とを結び付けた作品。1884年に書かれる「寝台29号」と合わせて、戦時下における娼婦を主題とした三部作と呼んでもいいかもしれない。モーパッサンは早くから男女の関係を闘争、ないし支配と被支配の関係と捉えるのだが、この三作においては、それが戦争というテーマと重ねられることによって、複層的な意味を持つ作品に仕上がっている。そこでは、娼婦と軍人、男と女の間に、個人の尊厳を賭けた戦いが繰り広げられる。

 もっとも「脂肪の塊」においては第三項となる「ブルジョア市民」(そして彼らがさらけ出すエゴイズムと自己欺瞞)にむしろ主題が置かれていたのだが、その第三項が不在なぶん、「マドモワゼル・フィフィ」および「寝台29号」では、より直接的に二者の対立が前面に現れ、その分いっそうに、その闘争は容赦のない熾烈なものとなるのである。

 ここに描かれる娼婦たちは、敗戦後、ドイツ人将校たちを相手にすることを受け入れてきたのであり、つまり彼女たちは敗北を受け入れた者たちである。しかし宴会の場でのサディスティックな将校〈マドモワゼル・フィフィ〉の侮辱が度を越した時に、娼婦の一人ラシェルは、怒りを抑えきれず、さながら窮鼠猫を噛むがのごとき一撃によって復讐を遂げる。

 〈マドモワゼル・フィフィ〉は「フランスの女もすべてわれわれのものだ!」と大声を上げ、ラシェルはそんなはずはないと言い返す。

 ヴィルヘルム少尉は笑いながら腰をおろし、パリジャンの口調をまねて言った。「まったく、かわいいことを言う娘だ。だったら、そもそもおまえはここへ何しにきたんだ?」

 頭に血がのぼり、女はすぐに返事ができなかった。興奮のあまり、相手のことばがよく耳に入らなかったのだが、何と言われたのかわかると、いっそう憤慨して、激しく言いかえした。「あたしは、あたしは、まっとうな女じゃないの。売春婦よ、プロイセンのやつらには、売春婦がお似合いでしょ」

(「マドモワゼル・フィフィ」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年、142頁)

 個人的には、この辺りの訳文の調子は物足りないものがあるが、ラシェルという明白にユダヤ人らしい名前の娼婦(二重のマージナリティーの指標)が、「フランス女性」に対する侮辱を一身に引き受けて復讐に至る、という辺りの複雑な機微は、なかなか簡単に説明しきれないところがあり、ぜひ一読して頂きたいと思う作品だ。 

 ところで、この作品は新聞に掲載された初稿においては、ラシェルが教会に匿われていたというところで終わるのだが、単行本収録に際してモーパッサンは結末を加筆している。そしてこの結末の場面が、長らく私にとっての悩みの種なのである。

 その後しばらくして、ラシェルはある愛国者に見そめられて娼家を出た。なんら偏見を持たない男で、女の勇敢な行動に惚れこんだのだが、やがてラシェル自身を深く愛するようになり、結婚することにした。かつての娼婦は、他の上流貴婦人とくらべても少しも見劣りしない、貴婦人となった。

(同前、146頁)

  この(モーパッサンらしくもないと言える)あからさまなハッピー・エンドはいったい何なのか。ここに、ルイ・フォレスチエのような研究者でさえもが、モーパッサンのドイツ嫌いの思い、対独報復の主張への一種の同調を見てとるのだが、果たして本当にそいうことなのだろうか。

 私としては、むしろこの結末によって、ドイツ将校殺害という「愛国的」行為を盲目的に称えるような類の「愛国者」に対する疑念が、アイロニカルな形で表明されているのだと受け止めたいという思いがある。少なくともそのほうが、モーパッサンの戦争を主題とした一連の作品への解釈は整合的なものとなるように思うのであるが、はたしてどうだろうか。

 

 話は変わって、ふと Kyo が2014年に出したアルバム L'équilibre を思い出す。Le Chemin を出した2003年頃に絶好調だったのだけれど、あっさりと活動を休止してしまった、そのバンドが活動を再開した。当時わりと好きだったので期待して聴いたのだけれど、その音楽が(良くも悪くも)あまりに変わっていないことに、いささか驚いたりもしたのだった。いやまあ、我儘な話ではある。

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Comme Indy j’ai cherché le Graal, la jeunesse éternelle

Le botox dans les veines

J’arrête de fumer et de boire chaque dimanche, chaque semaine

J’ai rechuté hier

 ("Le Graal")

 

インディのように探した、聖杯、永遠の若さを

血管にはボトックス

タバコも、毎週、日曜に飲むのも止めた

でも昨日、僕はふたたび病気に陥った

(「聖杯」)

 

「冷たいココ」、あるいは不条理な宿命/フー!チャタートン「ボーイング」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 昨日はうっかり「冷たいココはいかが!」を飛ばしてしまった。

 1878年発表のこの作品は、これも習作の色が濃いのであるが、さて、この話はいったい何なのだろうか。

 語り手のおじのオリヴィエは生涯の節目となる出来事の起こる時に、必ず道を行くココ売り(ココは当時の清涼飲料水)に出会ったという。誕生、衝突事故、初の狩猟、妻となる女性との出会い、知事就任のかかった重要な面談、そして臨終の場。

 人生において何が偶然で、何が必然であるかは我々にとって永遠に解きがたい謎である。ときに偶然が大きな意味を持つということは、後のモーパッサンの作品の一つのモチーフであるだろうが、しかし、ここで問題となっているのはそういうことでもないようである。そもそも、肝心の語り手のおじの言葉がよく分からない。

というのも、わたしは事物や生き物のおよぼす神秘的な影響などは信じていないが、純然たる偶然というものには信をおいているからだ。彗星がわれわれの天空を訪れているあいだ、偶然によって、さまざまな重大事件がひきおこされることは確かだ。往々にしてそうした事件がうるう年に発生していること、しばしば大きな不幸が金曜日に起きたり、数字の十三となんらかの符号を見せること、特定の人たちと会うときまって同じような出来事が再発することなどもね。そうしたことがあるから、迷信が生まれるのではないだろうか。迷信というものは、その原因を偶然の符号のうちに見るだけで、それ以上追及しようとはしない、不十分で、表面的な観察から生まれるのだ。

(「冷たいココはいかが!」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年、24頁)

  モーパッサンはここで無学な人の妄信をからかっている(つもり)なのかもしれない。だがそれなら、現に六度にわたるココ売りの出現はいったい何を意味するのだろうか。二度や三度ならず六度となれば、そこにはやはり因果関係があるというべきであろうが、しかし人生がココ売りと宿命的に結ばれているとは、つまり何事なのか。

 モーパッサンが言いたいのは、無意味な宿命というものがあるということなのか? あるいは宿命とはそもそも不条理なものなのか?

 もしかしたら、モーパッサンの脳裏にはフロベールボヴァリー夫人』の盲人や、トゥルゲーネフの「三つの出会い」の印象が残っていて、「重なる偶然」という主題の着想に至ったのかもしれない。そしてそれをむしろ喜劇的に扱うことを面白いと感じたのかもしれない。・・・だがしかし、もう一つすっきりしない話ではないだろうか。

 ところで、モーパッサンは二十代の初めにホフマンやポーを読んだに違いなく、彼の短編小説執筆は、怪奇趣味に実体験をまじえた「剥製の手」や「水の上」から始まったのだった。この「ココ売り」もその延長にあることは確かだろう。ところが、「脂肪の塊」の成功の後、レアリスムに根を下ろしたモーパッサンの短編作品群においては、この種の怪奇趣味はいったんは表面から姿を消す。が、しばらくするとそれがいわば「実証主義、合理主義を経由する形で」回帰してくるとことになるのである(その先に「オルラ」が生まれるだろう)。

 そのように考えるなら、70年代にモーパッサンが「ココ売り」のような作品も書いていたという事実は、彼の作家としての経歴を通覧するにあたっては何がしかの意味のあるものである、ということは確かに言えるだろう。

 

 例によって話はヴァリエテへ移る。

 実のところ、私のヴァリエテ・フランセーズに関する知識は、カストール爺こと向風三郎氏に負うこと甚だ大であり、クリスチーヌ&ザ・クイーンズも、ディオニゾスも、そしてFeu ! Chatterton フー!チャタートンも(さらにはストロマエも、クロ・ペルガグも、アメリー・レ・クレヨンも、バビックスも)、最初に教えてもらったのは、

カストール爺の生活と意見

でありました。唐突ながらこの場で心よりの感謝を申し上げておきたい。

 さて、半ば時代錯誤的に暑苦しい、もとい情熱的なこのグループの2015年のデビュー・アルバムが Ici le jour (a tout ensevli) 。収録曲はどれもインパクトがあって粒ぞろいだけれども、その歌詞はけっこう難解で、私には理解しきれないところが色々ある(のが悲しい)。そんな中で比較的分かりやすいのは「ボーイング」。ボーイング(のジャンボ・ジェット)礼賛という、別のレベルでよく分からない歌ではありますが。

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Boeing, Boeing !
Et tes mouvements lents sont de majesté
Est-ce la faute de tes passagers indigestes
Si tu penches ? 

(Boeing)

 

ボーイングボーイングよ!

お前のゆっくりとした動きには威厳がある

消化しにくい乗客たちのせいだろうか、

お前が傾いたとしたら?

(「ボーイング」)

 

「脂肪の塊」、あるいは自己欺瞞/ギエドレ「立ちション」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「脂肪の塊」についてはこれまでに何度か書いたり話したりする機会があったので、言いたいことはだいたい言ったという思いがあるのだけれど、それでもせっかくなので一言記してみたい。

 モーパッサンの文学にとってキー・ワードの一つは hypocrisie であり、それはまさしくこの出世作「脂肪の塊」についても当てはまる。この語は一般に「偽善」と訳されるのであるが、つらつら思うには、「自己欺瞞」という語のほうがより核心をついているのではないだろうか。

 確かに娼婦〈脂肪の塊〉の旅の連れ合いたる貴族・ブルジョアたちは、貞淑な紳士・淑女という体裁を保ちつづけようと振る舞うのであり、それを偽善的態度と呼ぶことができるだろう(その化けの皮は作品中で十分に暴かれるのであるが)。だが私にとってより重要な問題と思われるのは、彼らが自分たちの行動を正当化する、その振る舞い方のほうなのである。この違いは些細なものかもしれないが、あえてその相違にこだわっておきたい気持ちが私にはある。

 多くの場合、人間は「悪事を働こう」と考えて意図的に悪事を働くのではない。そういう真に「悪魔的」な人物はむしろ例外的な存在だろう。そうではなくて、たとえ利己心に駆られてする行為であっても(そして、それが他人に害を与えるものであっても)、それを自分に対して正当化する言い訳を見いだせる時に、人は容易にその行為を自分に許しうるのである。あるいは、何らかのやましい行為を働いてしまった後に、それを正当化できる理由を(必死に)探し出す生き物なのだ。いわく、自分だけではなく皆がやっているではないか、いわく悪いのは向こうの側だ、いわく、しょせん大したことではない、いわく・・・。

 「脂肪の塊」において、この「言い訳」は、〈脂肪の塊〉が頑なに抵抗するのに腹を立てたロワゾー夫人が怒りを爆発させた時に、端的に表明される。

まっぴらですよ、こんなところにいつまでもじっとしてるなんて。どんな相手とでもあれをするのが、あの淫売の商売でしょ。選り好みする権利なんかありませんよ。

(「脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、93頁)

  もとより、誰のことでもない。私は自分自身の内に、この自己正当化への欲望が根深く存在することを経験的に知っている。だからこそ、初めて読んだ時から「脂肪の塊」は私にとって見逃すことのできない決定的な作品だったし、それは今に至っても少しも変わってはいないのである。

 

 ところで話は変わって、太田浩一の訳文で一点だけ不満に思うことは、ヒロインの名前を「ブール・ド・スュイフ」とカタカナで表記しているところである。通例となっている「脂肪の塊」の意味が強すぎるか不細工であるか、なんらかの理由で忌避したい気持ちは分からないではないが、しかしカタカナ表記では解決にならないだろう。

 「脂肪の塊」という語は確かに不躾であるが、その不躾さは、Boule de suif というフランス語の内にだって含まれているに違いない。それはあからさまに差別的なニュアンスをはらんだ娼婦に対する侮蔑的な呼称なのである。だがしかし、このモーパッサンのテクストは、終始一貫して、ヒロインの名を本名のエリザベート・ルーセではなく Boule de suif の名で呼び続けるのである。もちろん一義的には、実際に彼女をそう呼ぶ周囲の人物たちの言葉を、テクストは「客観的」に採用しているという建て前の上でのことである。だが、それは本当にそれだけのことだろうか?

 いずれにしても、彼女が「脂肪の塊」と呼ばれる存在であることを、テクストは繰り返し読者に思い出させるのであり、その効果は、意味内容を伴わないカタカナ表記では補うことはできないだろう。私はそんな風に考える次第である。

 

 さて、偽善と自己欺瞞に対して敢然と諷刺をぶつけて笑いの対象とする、リトアニア出身の奇才 Giedré ギエドレをご存知だろうか。2014年に『私の日本でのファーストアルバム』を出したリスペクトレコードは本当に偉い。

http://www.respect-record.co.jp/discs/res252.html

 ギエドレさんについて言いたいことはたくさんある。とりあえず21世紀に登場した女ブラッサンスと呼んでみたいところだが、本音を言えば彼女はブラッサンスよりも才能があるのではないかと思う。現実の滑稽な面、醜悪な面から視線を逸らさない点でユモリストはいつでもレアリストであるが、それをさらに笑いに転じてみせるためには理知的であると同時に鋭敏であり、タフであると同時に繊細でなければなるまい。中には相当にえぐい歌も色々あるが、ひとまず代表曲の「立ちション」を挙げておこう。男女の不平等への抗議が、「立ちションしたい」の一言に託されている。

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OUhouhou j'aimerais pouvoir pisser debout
Ouhou
Pisser debout
(x 2)
("Pisser debout")
 
立ちションができたらいいのに
立ってオシッコ(×2)
(「立ちション」)

  息長く活動してほしいと思っています。

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』について/ザジ「ペトロリアム」

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 勢いのついているうちに、これについて一言記しておきたい。そもそも、記すのは義務と思えば、気軽に取りかかれずに手が遠のいてしまったのであった。

 モーパッサン『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年9月。

 2011年の『女の一生』(永田千奈訳)に次いで、古典新訳文庫創刊から10年目の年に、ついにモーパッサンの短編集(全3巻)が刊行されることになったのは実にめでたい。翻訳者太田浩一は、以前にハルキ文庫から『モーパッサン傑作選』(1998年)、パロル舎から単行本で作品集『ロックの娘』(1998年)を出版している。ついでに言えばフロベールの『三つの物語』(福武文庫、1991年)、『感情教育』上下巻(光文社古典新訳文庫、2014年)の翻訳者でもあるのだから、山田登世子亡き後の現在において、モーパッサンの翻訳者としてもっとも相応しい人物であると言うべきだろう。

 さて、この新しい三冊(予定)の「傑作選」の最大のポイントは、作品選択の基準につきると言っていい。つまり、

本書は、モーパッサンの多面的な文業やその魅力を紹介することを目ざして編んだ、中・短篇アンソロジー(全三巻を予定)の第一弾です。ヴァラエティーに富んだ作品を収録し、日ごろあまり日の目を見ることのない作品も積極的に採りいれたつもりです。各巻に中篇の秀作を最低二篇はおさめること、他社の文庫で現在容易に読むことのできる作品はなるべく除外するという方針をとりました(後略)。

(「訳者あとがき」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、333頁)

  それはつまり、青柳瑞穂の新潮文庫の三冊、高山鉄男の岩波文庫、山田登世子のちくま文庫に収録されている作品は「なるべく」採らない、ということを意味するのである。それはつまり、「ジュールおじさん」や「首飾り」や「宝石」や「野あそび」や「わら椅子直しの女」や「メヌエット」や「酒だる」や「二人の友」や「初雪」までもが(恐らくは)収録されない、ということである。いや、読者にとって大変にありがたい英断に違いないのだが、むしろ蛮勇ではないかと危惧してしまうほどである。

 その結果、およそ1884年までの作品を収録するというこの第一巻のラインナップは、次の10篇となっている。

「聖水係の男」

「「冷たいココはいかが!」」

「脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)」

「マドモワゼル・フィフィ」

「ローズ」

「雨傘」

「散歩」

「ロンドリ姉妹」

「痙攣(チック)」

「持参金」

  「シモンのパパ」ではなく「聖水係の男」、「水の上」ではなく「冷たいココ」という、のっけからしびれる選択。出世作の「脂肪の塊」は外せないとしても、「メゾン・テリエ」を外して「マドモワゼル・フィフィ」というのも頼もしい。後続の中で一番有名なのは「雨傘」に違いない(これが新潮に抜けていたのは意外だ)が、その他の作品はこれまで、他の作品集への収録も稀だったものと推測される。したがって、率直に言ってこの作品集は、モーパッサン中上級者向けのものという印象が強いのである。

 なお、新潮・岩波・ちくまの各文庫収録作に関しては次のサイトが詳しい。って、もちろん私のです。

モーパッサンを文庫で読もう! ―モーパッサンを巡って

 つまるところ、あなたがモーパッサンを初めて手に取るのであれば、まずは岩波文庫ないしちくま文庫をお試しになって、その手応えがよければぜひこちらに進んでいただきたい、と私としては正直に申し上げたい。いや、もちろん私としても、新潮の65編を抜きにしてもモーパッサンの「傑作」は他にもたくさんあると言いたい気持ちは山々なのだけれども、しかし仮にモーパッサン初体験の若者がこの作品集を手に取って、それでもしも「この程度のものか」と思われてしまったら居ても立ってもいられないではないか。いや、いったい私はなんの心配をしているのか。信じろ、大丈夫だ、モーパッサンは。きっと。うん、でもしかし。

 なにはともあれ、待ちに待った新訳のモーパッサンである。ぜひとも多くの方に書店で手に取ってもらいたいと心から思っておりますし、すでに読んだことがあるというすべての方には、これまで知られることが少なかったモーパッサンの作品が手軽に読めるこの機会を逃す手はありません。ファンが一人でも多く増えることを願っています。

 また、2・3巻の無事の刊行も心待ちにしています。

 

 とりあえず、冒頭の「聖水係の男」について一言。

 1877年に書かれたこの短編は、まだ習作の色の濃いものである。この短編の主題は「子どもとの再会」であるが、実の父親との関係が決して良好とはいえなかった青年モーパッサンの心性と照らし合わせてみるならば、真に問題となっているのは「ありうべき理想の父親の発見」というものではなかっただろうか。「仕事も財産もなげうって我が子を探す父親」というイメージは、浮気性で父親としても不甲斐ない(とギィ少年に思われていた)実父ギュスターヴの姿と明確な対照を成すものである。そう考えるなら、婚外子シモンが誰にも誇れる理想の父親を手に入れる「シモンのパパ」(1879年)と、これは対を成す作品だと言えるだろうし、この作品は、青年モーパッサンにとって「父」の存在がいかに重要だったかを暗に語っているように思われる(彼はフロベールという「精神的な父」を発見することができたのだった)。

 翻訳を読んでいて、なかなかうまく書けていると思ったのは、子どもジャンが行方不明になった場面。

夜の闇が迫っていた。あたり一面に褐色の靄がたちこめ、恐ろしげな闇のかなたに、あらゆる物が姿を隠してしまった。かたわらに立つ三本の樅の巨木は、あたかも泣いているかのようだ。応じる声はなかったが、なにやらうめき声に似たものが聞こえてくる気がした。父親がしばらく耳を澄ましていると、あるときは右側から、またあるときは左側から、たえずなにかが聞こえてくるように思えた。正気を失った父親は夜の闇に分けいって、いつまでも「ジャン! ジャン!」と呼びつづけた。

(「聖水係の男」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、11頁)

 そして、今更ながら「ああそうだったか」と気づき直したのは、聖水係となった父親が、教会にやって来る青年が自分の息子と気づく場面。

 老人は思わず身震いした。

 そのとおりだった。若者は自分に似ていた。亡くなった兄にも、記憶にあるまだ若いころの父親にも。老夫婦は胸が詰まって、たがいに口をきくこともできなかった。

(同上、16頁)

 遺伝による親子の類似は、80年代のモーパッサン作品に繰り返し現れるモチーフであるが、それはすでにここに見られるものだったのだ。なるほど。

 以上ここまで、日本においてモーパッサンがまだ元気なことを、とにかく祝いたい。

 

 ところで今日は、Zazie の一番新しいアルバム Encore heureux (2015) を取り上げる。最近のザジはテレビのオーディション番組のコーチ役として活躍しているようだけれど、近作のアルバムでは普通によく売れるタイプの曲をあまり書かなくなっていて、『まだ幸せ』もあまり売れなかった模様。でも、しかし、やっぱり恰好いいじゃないですか。

 ザジの書く歌詞はおしなべて読み応えがある。というか難しくて辞書がないと読めないものが多い。"Petroleum" と "pétrole et hommes" は掛け言葉。地球が人間に物申す、エコロジカルな歌詞となっています。

www.youtube.com

Comme larron en foire
Pétrole et hommes
Vendez mon or en barres
Je ricane
La Terre est un trou noir
Rien dans le crâne
Prenez mon or en barres
Je le donne
("Petroleum")
 
よく馬が合うのね
石油と人間は
私の黄金を延べ棒にして売りなさい
あざ笑ってあげる
地球は一つの黒い穴
頭の中は空っぽ
私の黄金を延べ棒にして取りなさい
そんなものはあげるわ
(「ペトロリアム」)