えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

気疲れの日々

はじめはいろいろ疲労がたまる。
16日マラルメ『賽の一振り』ひとまず読了。
かりに賽が振られても、偶然は廃棄されず、ただ場所のみがあるのであるが、
もしかすると遥か天上に北斗七星のような星が瞬きはじめるのかもしれず、
つまり地上では成し遂げられぬもの(理想とか絶対とか必然とか、たぶんそういうもの)の姿を、
ただ天に見上げることのみができる、のかもしれない。
それはともかく、なんにせよ「一切の思考は賽の一振りを発する」
人間の思念は、不可避的に偶然を廃棄して必然に至らんとする意志を放ち、
かくして永遠に賽を振るべきか振らざるべきかのドラマが繰り広げられる、
すなわち、私も船長、あなたも船長、あるいはトック帽を被ったハムレット。あるいは。


既に古典的名著と呼んでよろしかろう
高階秀爾、『世紀末芸術』、ちくま学芸文庫、2008年
の中に次の一節がある。
19世紀末は「絵画が文学に近づき、詩が音楽に接近し、建築が彫刻に変貌し、デザインが装飾的になった」時代であるという文脈。

とくにマラルメは、呪われた詩人という看板にもかかわらず、ピングの店から買い集めてきた飾りの豊かな家具や、ナンシー派の派手なガラス細工などを集めて喜んでおり、また逆にアール・ヌーヴォーの芸術家たちは、象徴主義の哲学の中に、自分たちの創造活動の拠りどころを求めた。まさしく、<アール・ヌーヴォーの中にはボードレールヴェルレーヌがあり>、逆に、<マラルメの趣味はアール・ヌーヴォーの愛好者の趣味にほかならなかった>のである。(191頁)

なるほどな、と。
勿論マラルメは『賽の一振り』序文で自らの試みを音楽に比しているわけだけれども、
そこで求められているものはつまり発話としてのリズムや響きである以上に、
運動や時間性といったものの視覚化だったとするならば、
そのことを、次のような一節と近づけてみることはできまいか。

 世紀末芸術のイコノグラフィーの中で(略)よく登場してくるものは、燃え上がる焔、蝋燭の灯、渦巻く煙、うねる波、華やかなダンス等、いずれもはっきりしたかたちでとらえることができず、むしろ逆に、絶え間なく変化する動きと、流動的な性質によって、豊かな運動感と多彩な装飾的効果を同時に表現し得るようなモティーフであった。(179頁)

『賽の一振り』の文字配列は、あれを船とか星とかの象形と捉えるよりも、
あるいはそれと同時に、もっとはっきり「装飾性」という観点から見るほうがいいのではないか。
てなことを思い、改めて眺めてみるのだが、いやはやよく分からないのでありました。

綱渡りのドロテ

モーリス・ルブラン、『綱渡りのドロテ』、三好郁朗訳、創元推理文庫、1986年
Dorothée danseuse de corde は1923年発表の由。
「訳者あとがき」にも述べられているように、リュパンものとの関連が色濃い作品で、
この度初めて訪れてその見事なお仕事ぶりにびっくり仰天した
怪盗ルパンの館
では「準ルパン」ものとされているのもいかにももっともであろう。
すこぶる単純化して身も蓋もなく要約すると、
伝説の財宝を求めて極悪人と果てしなく決闘する物語であって、
ルブランがリュパン・シリーズで確立した話型といってよいだろう。廃墟趣味もおなじみだ。
新聞連載特有の山場の盛り上げ方もお手のものといった感があり、
要するには面白いからくいくい読みました、という話ではある。
興味を惹かれた箇所を二つほど引用。

 子供のころの彼女はいつも幸せだった。拘束も困難も規律も、およそ自由な本性を妨げ、ゆがめるようなものは、なにひとつ課せられたことがない。向学心に燃えていたが、教えてくれる人の知識から、自分が学びたいと思うことだけ学びとるようにしていた。アルゴンヌの司祭さんからラテン語を学びながら、教義問答を学ばなかったのもそれだ。小学校の先生から、彼が貸してくれた書物から、実に多くのことを学んだ。ただし、さらに多くを、両親が自分を預けた農家の老夫婦から学んだのである。
(107-108頁)

とりあえず、さすが世俗主義の時代だな、と。

 こうして、今回もまたドロテは、理性の教えるところに逆らってまでも、やがて起こることについての強い予感に導かれるのだった。彼女の理性は、ものごとを論理的な順序と厳密な方法に従って整理しようとする。ところが、その彼女の目には、まだはじまったばかりのことがすでに成就の姿で見えている。彼女には、他人を動かしている動機がはっきりとわかる。すべては直観としか言いようがないのだが、彼女の明敏な知性が、そうした直観をたちまち現実の状況へ結びつけるのであった。(148頁)

「直観と知性」はまさしくリュパンの売り文句であって、ここにも
怪盗紳士と綱渡りの踊り子との共通点は明確であろう。

レセ・パセ 自由への通行許可証

Laissez-passer, 2002
ベルトラン・タヴェルニエ監督。
これまで知らなかった作品を、たまたま見つけて鑑賞。これがすこぶる素晴らしい。
第二次大戦中占領下のフランスにおいて映画を撮り続けた男達の物語。
主役は二人のシナリオ作家で、一人はレジスタンでありながら、
ドイツ資本の映画会社で助監督の仕事を続ける。
一人はそうした協力を拒み、愛人の家を渡り歩きながら、ペンでの抵抗を試みる。
検閲や物資難の困難な状況の中で、ぎりぎりのところで尊厳を守ろうとする人々の姿が、
美しくも力づよく描かれていると申しましょうか。
正確なことは分からないけれど、彼らは一昔前まで
対独協力者のレッテルを貼られていた人達であったのだろうと思う。
彼らが当時にあって、実はそれでも良心と矜持を持って映画の制作に取り組んでいたのだということを、
この作品は訴えている。
そしてそれは確かにそうだったのだろうと思わせる説得力がある。
これは映画制作者達が先達へ捧げた真摯なオマージュであります。