えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

みれん

Regret, 1883
11月4日のゴーロワ、15日づけのヴォルールに再録。1884年『ミス・ハリエット』収録。
実は相馬御風「モウパッサンの自然主義」に出てきたので。
ついでにこの作品はLéon Dierx (1838-1912)(いまだに何と読むのか知らない。
ディエールでいいんすか)への献辞がついていて、
ま、この人はパルナス派詩人だったのです。マラルメのあとをついで「詩人の王子」になりました。
「みれん」という訳題はちと「みれんたらしい」のでいかがなものか。事態はもう少し深刻
だと思われるので「後悔」と、私ならしたい。
「サヴァルのとっつぁん」ことサヴァル氏は62歳。ある秋雨の降りしきる一日に過ぎ去りし日々を
回想する。せっかくなので、御風訳を引用しよう。

・・・とうとう母は死んだ。生とは何たる悲しい事だろう。それからと云ふものは彼れはづッと一人住みだが、さて、今度の番は、さうだ、彼だつてやがては死ぬのだ。此世から無くなるのだ。そしてそれで萬事休むのだ。さうなるともうサーアヴァルなるものは此の世界にや居なくなるのだ。あアあ、何てまア怖ろしいこつたらう。それでも外の人間共は生きてる、生きて笑つてる。さうだ、奴等は盛に楽しみをつゞけてるだらうが、サーアヴァルその人は此世にや居ないのだ。して見ると、怪しい。その永劫かけて確かな、死と云ふ事実の下に居ながら、笑ひ楽しみ喜んでる人間こそ不思議ぢやないか。だが、もし、此の死と云ふ奴が単に仮定(プロバブル)位のものなら、まだ何とか望のもちやうがある筈だ。とは云ふものゝ、とてもとても、日が暮れると夜になると一つで、そりやもうどうしても免れがたい事実だ。何とも致し方のない事実だ。(「早稲田文学」明治41年1月之巻、126ページ)

御風はもちろん英訳からの重訳だけれど、仏語原文と照らしても正確な訳である。
さて何事もない人生を過ごしてしまったサヴァル氏も、生涯にただ一人女性を愛していたのであり、
それはサンドル夫人だった。一目見た時から彼は彼女を愛したけれど、彼女はすでに人妻だった。
サヴァル氏は生涯、一友人として彼女と付き合ってきたのだけれど、記憶を思い返している
うちに、ある日の出来事を思い出す。
郊外に散歩に出て、夫のサンドル氏が居眠りしている間に、二人だけで散歩をした時。

 彼が「戻る時間じゃないでしょうか」と告げた時、彼女は彼に奇妙な視線を投げかけた。確かに、彼は奇妙な風に彼を見たのだった。彼はその時、そのことを思ってもみなかった。そして今になってそのことを思い出すのだ。(中略)
 その「どうして」を、決して問うてみることはなかった。今、決して理解することのなかった何事かを見出したかのように思われるのだった。
 それは・・・?
 サヴァル氏は赤くなるのを感じ、慌ただしく立ち上がった。あたかも三十年若かった頃に、サンドル夫人が彼に言うのを聞いたかのように。「愛しています」と。(1巻1050ページ)

居ても立ってもいられなくなったサヴァル氏は、通りの向いにある夫人の家を訪れ、彼女に問いただすと・・・。


切ない結末が実によろしい好編。
何も劇的なことのないままに過ぎてしまった人生について、ある日ふと思いをいたし、
自分に残されたのはただ老いと死があるばかりであると悟る。というテーマは「自殺」とか「散歩」
とか、もっと残酷な短編にも描かれるけれど、この作品では「ありえたかもしれない過去」が
具体的に迫ってくる点においてより切実な印象を与える。
一度きりの人生は時として取り返しのつかないものとなる、ということ。それゆえに「運命」は
残酷であるということ。こうして改めて読んでいると、それがモーパッサンの短編に繰り返し
描かれているひとつの重要な主題だったのだな、ということが分かってくる。
ような気がする。
訳だけではなんなので、最後に御風さんの言葉を引用しておこう。上記引用につづく言葉である。
私のような軟弱者にはちょっと勘弁、ごめんなさい、という気合の入りようでございます。

人間を求めて獣を得、生を求めて死に到り、而して自ら精神を度外視した彼れは却て精神の錯乱によりて死んだ。モウパッサンが悲惨な文学的生涯は新たに自然主義を鼓吹しやうとする吾人に向つて最も意義深き教訓を與ふるものではないか。