えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『赤と黒』について今思うこと

『赤と黒』下巻表紙

 スタンダール赤と黒』、小林正訳、新潮文庫、上下巻、1957-58年(上巻、2017年104刷、下巻、2019年88刷)

 今、「『赤と黒』は本当に傑作なんですか?」と聞かれたら、どう答えよう。

 ひとつ言えることは、スタンダールは職業作家ではなかったということだ。それはつまり、彼にとって「売れる」ことは至上命題ではなかったし、実際問題としても売れなかったわけだ。言い換えると、彼には「読者」がよく見えていなかった。少なくとも読者第一で小説を書いていたわけではなかった。この点で彼はバルザック、ゾラ、モーパッサン型の作家とは明らかに違い、むしろフロベールに近いかもしれない。

 読者第一ではなかったことの結果として、彼はとにかく自分の好きなように小説を書いた。そこにこそ彼が時代を超越できた理由もあるに違いないが、しかし一方で、彼の作品がいわば「商品」としては不完全なものであるのも明確な事実であろう(と、今の私は思う)。端的に言ってムラがあるし、さらに言えば冗長さを免れていない。『赤と黒』でいえば、第2部のマチルドとの恋愛の後半部(フェルバック夫人相手に恋文を送るあたり)は特に、作者が面白がっているのはよく分かるが、いささかやり過ぎだと言っていいのではないか。

 それはそれとして、今の私にとって『赤と黒』の肝は、なんといってもレーナル夫人(と新潮文庫ではなっているのでその表記に従っておくが)狙撃以降の展開、つまりは第2部第35章以降(ちなみに言うと、それはモームが『世界の十大小説』の中で「過ち」と見なして理解しなかった部分)である。レーナル夫人による告発の手紙によって侮辱を受け、また自分の将来が台無しになったと思ったジュリヤンは闇雲に故郷に取って返し、教会で彼女をピストルで撃つ。彼は「牢獄」(原文でも prison と書かれているが留置所であるべきか)に入れられ、死刑を覚悟する。

 それから何が起こるのか? 牢番からレーナル夫人が生きていることを知らされたジュリヤンは、あつい涙を流して喜び、そして「犯した罪を後悔しはじめ」る(下巻、454頁)。同時に、結婚目前だったマチルドに対する関心は一気に冷めてしまう。彼の心の中では「野心が死んで、そのあとからもうひとつ別の感情が生れ」る(482頁)。彼はそれを「後悔」と呼ぶが、すなわち、彼はここに至ってレーナル夫人に対する自分の愛情を(ようやく)自覚するに到るのだ。

 (モームに分かってもらえるように)この展開をもっと噛み砕けば、以下のように理解できるだろう。ジュリヤンは衝動に駆られてレーナル夫人に対して復讐を企てるが、自分がそのように行動してしまったことがつまりは彼女に対する「裏切り」であったことを、彼は事後的に理解するのである。もし彼が彼女を信じていたなら、告発の手紙に裏があることを疑いえたはずだ。そうせずに衝動に身を任せてしまったことが彼の過ちであり、彼が言う「罪」とは、この「裏切り」に、彼女を疑ってしまったということにあるのだと言えるだろう。一方で、レーナル夫人が死んではいなかったことを知った時に湧いて出てきた無上の喜びが、彼に自分の真の心の在り所を教えることになった。その意味では、夫人狙撃の顛末は、ジュリヤンが真の自己認識に到達するために辿らざるをえなかった「試練」なのである。

 そして、そのような認識に達した彼は、死刑の判決を得た後についにレーナル夫人と再会を果たす。そこでは「ジュリヤンは、これまで一度もこんなひとときを味わったことはなかった」(520頁)、「ジュリヤンはこれほど夢中で愛したことはなかった」(521頁)と、最上級の表現が繰り返され、彼の至福が強調されている。

「(略)ふた月といえば、かなりの時間ですよ。これほど幸福なことは今までなかったと思います」

「今までになかったですって!」

「ありませんでしたとも」ジュリヤンは感激の色を見せて、そう繰り返した。「わたしは自分に向かっていうのと同じように、あなたに向って話しているんです。神にかけていいます。誇張などするものか」(523頁)

  場所はじめじめした地下牢であり、2ヶ月後には死刑が待っているという、およそ考えられる限りで最悪に等しい状況である。そこにおいて無上の幸福が成立するという逆説にこそ、まさしくスタンダールの真骨頂があると言うべきだろう(『パルムの僧院』のファブリスが牢獄で幸福を知るのと相似している)。そのような悲惨な状態で幸福に浸りきるということは、冷静に考えるならばおよそ現実には起こり得ないことだ。その現実には起こり得ないはずのことが、ここにおいて実現している。そこに、文学によってしか実現できない、まさしく文学的真実というものがあるのではないか。そして、その奇跡的状況に達するためにこそ、ここまでの(あまりに)長い道のりが必要だったのだ。ジュリヤンと共にその道のりを辿った上で、読者がこの至福の瞬間を共有できるなら、最初に挙げた瑕疵など一切問題ではなくなるに違いない。

 疑いようもなく本作のクライマックスはこの場面であり、ここに比べたらこの後のジュリヤンの独白(第44章)など、あらずもがなという気さえする。肝心のレーナル夫人が夫に呼び戻されてあっさり帰ってしまうという展開も(本当の最後の再会への伏線とはいえ)なんとも拍子抜けな感がある(この拍子抜け感は、『パルムの僧院』でファブリスがさんざん苦労して脱獄した後、あっさり自分から牢に帰ってきてしまう時の感じと同等)。端的に言って、山場を過ぎて作者の気が緩んでいる、あるいは早く終えてしまおうと投げやりになっているという感が拭えないところではある。

 その意味で、ジュリヤンの死刑の場面もおそろしくあっさりしているので、なんとなく読み飛ばしてしまって、記憶に残らないということになりかねない。

 地下牢の悪い空気が、ジュリヤンには我慢ならなくなってきた。さいわい、死刑の執行がいい渡された日は、美しい太陽の光を浴びて、自然が若やいでいた。ジュリヤンも元気が出た。長いあいだ海に出ていた船乗りが、陸地を歩くときのように、大気を吸いながら足を運ぶことは、快い感覚だった。《さあ、申し分ない。勇気は十分ある》

 斬られようという瞬間ほど、ジュリヤンの頭が詩的になったことはなかった。かつてヴェルシーの森で過した楽しい日々の思い出が、あとからあとから、まざまざとよみがえってきた。

 すべては簡単に、しきたりどおりに行われた。ジュリヤンの態度にも、なんら気取りが見られなかった。(551-552頁)

 要するに、作者にはこういう場面を一生懸命書く気がなかった、というのが如実に窺えるような簡潔さではあるが、しかしそれでも要点はしっかり書かれている。美しい太陽、若やいだ自然、心地よい大気と、あたかも世界は祝福に満ちているかのようであり、そこにあってジュリヤンは元気と勇気に満ち、いわば生の充溢の中で死を迎えるのだ。彼はすでに出世欲、虚栄心といった、かつて心を捕えていたものの一切から解き放たれている。俗世の欲望を超越した状態で迎える死は、一種の殉教と呼びうるかもしれない。殉教とは自らの信仰のために命を捧げることだが、ジュリヤンにとってはもちろん神への信仰ではない。あえて言えばその対象は真の愛情ということになるだろう(そう言葉にしてしまうといかにも陳腐に聞こえかねないけれど)。

 もっとも、殉教といってもジュリヤンは聖人になるわけではない。彼の幸福はマチルドの犠牲の上に成り立っているが、彼はほとんど彼女を顧みないのである。恬淡とした最期のジュリヤンの姿からは、至上の幸福は無私の領域にあるかのように見えなくもないが、むしろ徹底したエゴイスムによって成り立つものだと、作者は開き直っているのかもしれない。

 いずれにしても、かくしてジュリヤンは最終的に(予想とは違った形で)一つの「自己実現」を成し遂げる。野心という世俗の欲望に捕われていた精神が、長い試練の果てにある種の超越的な境地に到る、その「成長」の記録こそが『赤と黒』という物語の骨子だと言えるだろう。


 『赤と黒』は復古王政という一時代の精神のありようを描いたということで、文学史的にはレアリスムの代表作として取り上げられる。そのことの意義はアウエルバッハの『ミメーシス』を読めばなるほどと深く納得させられる。実際、この物語は復古王政の時代にしか成立しえないという意味で歴史と密接に連関しているし、同時代の社会に対する批評性も明確であり、そうした意味においてフランス小説史において画期的なものであったことは、今から振り返れば疑いようもない。

 一方、産業革命以後の近代社会において、伝統的な身分制度から解放された個人は、各人が自分で自分の未来を切り開き、「自己実現」を目指すことをいわば余儀なくされることになる。地方の材木商の息子ジュリヤン・ソレルが一途に「成り上がる」ことを目指すという『赤と黒』の物語は、まさしく近代社会において個人の背負う「宿命」を、一個の典型として描き出したという意味において普遍的であり、その原型としての意義は今も決して失われていないだろう。その普遍性は『ゴリオ爺さん』や『感情教育』より広いものがあると言えるかもしれない。

 そうしたことはすべてその通りである。しかしそのような物語を通して作者スタンダールが描きたかったことの核心は、真の幸福とは「社会的な秩序から完全に切り離された状態」(野崎歓『フランス文学と愛』、講談社現代新書、2013年、99頁)にありうるということだったのかもしれず、その究極の理想を想像世界において掴み取らんがために、彼は飽くことなくペンを握り続けたのだ。

 そして、今の私にとってはそのことこそが最も意味を持っているように思われるのである(そして、そのことの意味を自問しているのでもある。なんだかややこしいようだけど)。端的に言えば、時代性または歴史的意義を云々するより前に、今の私たちにとって作品が持つ(持ちうる)意味と価値をきちんと言語化することが大事なのではないか、というのがこの2020年時点の私の立ち位置だということになるだろうか。

 スタンダールが考えていた Happy few の中に、今の自分が加えてもらえるか分からないし、あまりその自信もないけれど、とりあえず以上が、今の私が『赤と黒』について言えることのあらましです。