えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

コントとクロニックの近親性

てなことはともかく。
この半年折に触れ述べてきたことの一つは、
モーパッサンのコントは新聞という特殊な媒体を意識して書かれたものであり、そのことを抜きに
彼の特殊なレアリスムは理解できないということであり、フィクションとノンフィクションの境界を
限りなく溶解させてゆくところに眼目があった、ということである。
そう言いだし始めてから気になっていた論文を今さらに拝読して驚いたのがこれ。
宮原信「ギ・ド・モーパッサンに於ける短篇小説(コント)と時事評論文(クロニック)の近親性」『外国語科研究紀要』、東京大学教養学部外国語科編、28(2)、1980年、p. 41-55.
なんと。私のつらつら考えてきたことは全てここに書かれているのであった。
幾つかの作品を検討した後に論者はこう述べる。

 ここで我々は、クロニックと短篇小説両方に跨るような作品の代表的な例にぶつかったわけだが、短篇小説家としてのモーパッサンの努力は、さまざまな手段を用いて、この二つの境界線を曖昧にすることに向けられているようである。(47ページ)

まさしくその通りだ。続けて引かせてもらう。

 以上我々は、モーパッサンが、読者、特に女性読者によって、また年中行事にせよ時事的問題にせよ、その時々の話題に読者を送り返すことによって、また文体や小説構成上の種々な技法によって、作者と読者の間に直接の関係を打ち立て、クロニックと短篇小説両方の性格を持った作品を、つまりすでに述べたように、事実の世界と虚構の世界が甚だ曖昧な作品を数多く生み出していることを見てきた。そしてそれは必ずしも、短篇小説がクロニック的であるということだけでなく、クロニックの方もまた短篇小説と見做しうる得る点をいくつも持つという両方の側からの接近なのである。
 むろん、事実と言い、虚構と言ってもその二つを載然と分けることは不可能であり、その不可能性の上にこそすべての文学作品は成立しているとも言い得るのだが、ただモーパッサンの場合、一般に、「客観的、冷厳である」、「事実をありのままに描いた」と評される彼のいわゆる「客観主義」が、読者との直接のつながりの上に立って、事実と虚構の境界を故意にぼかすことから成り立っているように思われるのである。(48ページ)

続けて論者はこのようなことが可能になった理由を当時の新聞の特殊性に見て、ジル・ブラース、ゴーロワ紙
を検討するのである。完璧だ。
加えて「終わりに」において、論者は『脂肪の塊』とその後の短編には質的な違いがあると指摘し、
その相違の理由を新聞紙上という「作品の出現の場」に見る。

 これはモーパッサンの見せた妥協と言うより、フロベールの鞭を離れた彼が、はじめて独自の創作の場を見出し、そこに自分自身を適合させながら、同時にその場を自分自身に惹き寄せ、活用していった過程と言うべきであろう。(52ページ)

まったく異議なしと言うよりない。私が知る限り、この点をこんなにはっきりと論じている論文は
他にないはずだ。日本語で書かれたことが惜しまれる。このささやかな場でもって、
大いに称賛しておきたい。
とともに不勉強に恥じ入るばかりであることを告白しておきます。