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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

壮麗にして混濁した

マラルメ

月一マラルメ
1898年刊行『ヴァスコ・ダ・ガマへの記念アルバム』所収。
8音節、エリザベス朝式ソネ。

壮麗にして混濁したインドを越えて
旅するという唯一の関心に向けて
――この挨拶が、君の船尾が越えていく岬
時を告げる使者たらんことを


あたかも、カラヴェル船とともに
低く沈む帆桁の上のどこかで
絶えず跳ねまわりながら泡立っていた
新しい知らせを告げる一羽の鳥が


単調な声で叫んでいたように
舵が変わることはないまま
無益なる方位を
夜、絶望にして宝石


その歌声によって、蒼ざめた
ヴァスコの微笑にまで映されて。
Mallarmé, OEvures complètes, t. I, Pléiade, 1998, p. 40-41.

特にむつかしいのは四行目。とりあえず「岬」は「時間」の同格として、
松室三郎のようにこれを「時間の岬」とし、
「過去に連なり過去を背後に持ちつつ未来に向かって突出している『現在という時点』」
(『マラルメ全集』、第1巻、筑摩書房、2010年、別冊、282頁)
ということでよろしいのか。
いずれにせよ、未知の世界へ向けて航海する者へのはなむけの詩なのであろうが、
未来に向かっている君にむけてのメッセンジャーでありますように、
というこの詩の、メッセージは何かというと、
この詩がメッセンジャーでありますように、という行為遂行文そのもの
以外に特にない、ということになっているのである。おそらく。
鳥が告げる方位が空しいのは、鳥が告げようが告げまいが、
行く手に絶望があろうが、それでも宝石もあろうが、
要するにヴァスコは行くんだから空しいのであって、
その意味で言えばおじさんマラルメのメッセージがあろうがなかろうが、
というかそもそも中身のないメッセージなんだから、
要するに若者は荒野ならぬ荒海を目指すのだ。
と、いうことでよろしいのか。
よろしくない気もするが、とりあえずそういうことにしておこう。
「挨拶」という詩だって、「私は挨拶しますよ」ということしか要するには言ってない。
詩とは内容ではなく、行為なのだ。


これがマラルメが生前に発表した最後の韻文定型詩である。
もちろんマラルメさんにはそのつもりは毛の先ほどもなかったであろうが、
しかしまあ、現にこれが最後だと思えば、最後に似つかわしい詩である
ようにも見えてくる。
それはさておき、この頃、マラルメが完成に力を注いでいたのは、
『賽の一振り』であり、『エロディアードの婚姻』であった。
というわけで、来月から、ついに『賽の一振りは決して偶然を破棄しない』を
読んでみる。はたして読めるのかしらね。
夜は魚づくし。おお、とろける牡蠣よ。