えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

なんとモーリス・ピュジョ

あちらやこちらで引っ越しのお手伝いが続く。
ところで前言を翻しまして、
カミュのあれはハンフリー・ボガードであり、つまりハードボイルドである。
うむ、そうに違いあるまい。
で、大人しく宿題をこなす。

 Maupassant est un tempérament. Il a traité la Réalité comme une maitresse de bas étage. Il a rué sur son impudeur toute sa brutalité de mâle : chacune de ses pages semble vibrer de cette étreinte où il a fini par se briser. Mais la Nature n’est pas une fille qu’on force. La Nature est une Fiancée qui a d’autres secrets que ceux de son corps. L’œuvre d’art est une œuvre d’amour avant d’être une œuvre de chair. – Maurice Pujo.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 モーパッサンは好色である。彼は「現実」を下層階級の愛人のように扱った。彼は自分の破廉恥さの上に、牡としての粗暴さを丸ごと投げつけた。彼の書く頁はどれもこの抱擁に震えるかのようで、そこで彼は果てて終わるのである。だが「自然」は人が強要できるような娘ではない。「自然」は体の他にも秘密を持つ「婚約者」である。芸術作品は肉の成果であるより前に、まず愛の結晶である。――モーリス・ピュジョ

一読なんじゃこりゃ、であるが、それがピュジョであることで二度驚く。
Maurice Pujo (1872-1955)
左派寄りのジャーナリストとして出発するが、ドレフュス事件を機に右傾化。1898年極右団体アクション・フランセーズ創立に関わる。後にシャルル・モーラスの感化を受けて王党派に。1944年まで日刊紙『アクション・フランセーズ』の編集に携わった。戦時中はヴィシー政権に加担。戦後、対独協力の廉で五年間服役。出獄後、雑誌『フランスの諸側面』Aspects de la Franceを編集し、アクション・フランセーズを復活させた。
バルビュス(一歳年下)が最も左であれば、ピュジョは最も右に行った人ということになろう。
もっとも、ピュジョもこの時はまだ21歳の青年だった。
フランスの右派に関しては何ほども関心が無いが、このことだけは確かだと思うのは、
アクション・フランセーズは第三共和政の鬼子であった、ということだ。
1870年代生まれは、普仏戦争の「戦後」生まれであり、90年代に20代、
第三共和政と共に育った第一世代(シャルル・モーラスは68年生まれ)。
愛国心」を基軸に国民統合と富国強兵を進めてきた共和政政策の結果として、
軟弱なフランスを立て直すために伝統回帰を主張する一団が登場するというのは、
ある意味必然的な結果であって、教育効果が見事に発露していると言えなくもない。
その主張の行きつくところ、共和政に反対し、あまつさえはブルボン朝復活を掲げるところ、
まさしく鬼子たる所以であるが、子供であることに変わりはない。
(子供は時に、自らの出自に対して屈折した思いを抱くものだ。)
なんにせよ、1893年のこの時点では、
みんなまだ美学的な論争に耽っていることも許されたのであるが、
「政治」の時代は、実はすぐそこに迫ってきていた。
そのことを思うと、このモーパッサンについてのアンケートは、
時代の記録として、なんだか眩しいような輝きを帯びているようにも見えてくるのだ。