えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ユゴーの呪縛

連休はあちこち遠征。
土曜日マラルメ。評論「詩の危機」を読む第一回目。2ページ。
あらゆる言説を韻文の内に叩きこんだヴィクトール・ユゴー
自らの存在で詩句そのものを体現するがの如くであり、
余人をして発話する権利さえもを奪い取ってしまった。
不毛の地に立つモニュメント。そこにはただ沈黙があるばかりの有様であって、
詩句はこの巨人が去るのを待ち望んでいたかのようだ、とマラルメは述べる。
ユゴーの死後、言語はついに生命の息吹を取り戻し、自由の内に解体される。
それが1890年代に顕著に現れた「詩句の危機」である。
もっともその準備はヴェルレーヌによって密かに成されていたのだが、というところまで。


ユゴー(が体現するロマン主義)が詩によってすべてを言い尽してしまい、
もはや伝統的形式によっては新しいものを生みだすことができない、という意識が、
70年代以降の詩人達に共有されるようになった、というのは恐らく確かであろうが、
19世紀後半に何故伝統的な韻文定型詩が解体されるに至ったのか、
その原因は、実際のところは、歴史的社会的に多重的なものである。
そもそもロマン主義による詩の刷新は、
詩的言語の撤廃、句跨ぎや新しいリズムの導入を部分的にせよもたらし、
倒置や詩的破格を不必要なものとして軽視した。
韻文の一種の「散文化」はすでにそこに認められたのであって、
古典主義的な詩法の「骨抜き」は既に始まっていたのである。
無音の e の処理をめぐるあれこれの細則など無用なものと切り捨てれば、
韻文定型詩を規定するのは、一定の音数であることと韻だけだ、といっても過言ではない。
蛇口をひねる如く、口を開けば詩句が溢れ出てくるかのユゴーの饒舌の裏では、
韻文定型の形骸化が確実に進行していたと言って間違いあるまい。


古来、詩とは形式の問題であって、
詩を書くということはすなわち韻文を書くということだった。
その規則が形骸化し(たと見なされ)、時代遅れの代物とされた時、
詩とは何か、という問いが生まれる。
(詩の現代化とは、詩が自らの存在を問うようになった時に始まった。)
とりあえず、「詩」が形式にないのであれば、それは中身にあるよりない。
かくしてポエジーは形式とは分離した何物かに求められ、
そこに「散文詩」なるものが登場する。
他方では、形式そのものを刷新しようという発想が芽生えるのも、想像に難くない。
新しい酒には新しい皮袋を。
そこに「自由詩」なるものが生まれてくる。
だが12音節のアレクサンドランは個人の発明によるものではなく、
フランス語の歴史の中で形成されるに至った必然的代物であってみれば、
それに取って代わる新しい形式を生みだすというのは、
ほとんど不可能な話だったのよね、と後の世の我々は気軽に判断をくだす。


以上のことはフランス文学史の常識といってよいようなものであるが、
問題はそのような状況においてマラルメは何を成したのか、だ。
「自由詩」をはるかに突き抜けた『賽の一振り』と、
若い頃の夢の結実(なのかどうなのかの)韻文『エロディアードの婚姻』こそが、
詩人マラルメが最後に残した作品であるということ、そのことの内に、
(あるいは散文による「批評詩」の試みを含めて)
「詩の危機」に対する彼の真摯な回答があった。
どっちかだけなら話は簡単であろうが、両方あるところがマラルメの偉いところだ。
何故マラルメは(結果的には最後まで)韻文定型に拘り続けたのか。
その問いについて、できるだけしつこく拘りたい。


もう一点付け加えておくと、これはとりあえず個人的な考えなのだけれども、
韻文詩の衰退の理由には、
詩が声に出して発話されるものであるという性格を徐々に失っていった、という事実があるに違いない。
その理由はいろいろ考えられる。
一方に、ジャーナリズムの発展と、物としての書物の普及、
識字率の向上による不特定多数の新しい読者の登場は、
詩を書物で(声に出さずに)読む習慣を生みだす。
他方に「詩」の公的なものとしての社会的地位からの陥落という事象があって、
もちろん文学的なサロンは19世紀を通して存在し続け、
劇場は韻文の(最後の)砦としてあり、そういう場で詩は「歌われ」続けたのだが、
「聴く」ことと「読む」こと、聴覚と視覚の在り方の比重が、19世紀半ばのどこかで逆転した
に違いないと思う。
6音6音の区切りにせよ、韻にせよ、詩が朗読され、歌われるものであってこそ
その本来の効果を発揮するものである以上、
韻文詩の衰退は、社会における黙読の優位と表裏の関係にあるとしか考えられまい。
仮にヴェルレーヌが根本的に詩を歌い聴く人だったとすると、
マラルメが印刷された書物や、『賽の一振り』に見られる
ページ上の活字の配置に対する拘りを見せるのは、
彼自身が相当に「黙読」の人であったのではないか、
というのが、私が密かに抱く疑念なのである。
そうじゃなきゃなんであんなにも読みにくいものが書けるのか、
というただの恨み節でしかないのかもしれないけれども。