えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ジェリコ公爵

モーリス・ルブラン、『ジェリコ公爵』、井上勇訳、創元推理文庫、1974年(2000年16版)
Le Prince Jéricho は1930年刊行の由。
エレン・ロック、はたまたジェリコ公爵が実はアルセーヌ・リュパンだった、
と途中で言われてもあまり驚きはしなかったろうけども、そういう話ではなく、
ネタばれになるが、記憶喪失に由来する重篤なアイデンティティー・クライシスとは、
これまさしくルブラン先生が放っておくはずのない題材であった。
やれ海賊、やれバイロン、やれ十字軍と、見事にロマン主義が炸裂しているといってよろしかろうか。
ルブラン66歳、見事な「冒険小説」作家ぶり。
「殺人」を犯したか犯していないかが最重要の問題となる、というのもリュパンを思い出させるが、
このルブランの拘りにはなにかと考えさせるものがある。
何故殺人は許されないか。
それはもちろん、命はかけがえがないからである。
逆に言うと、物はかけがえがあるので、窃盗は絶対的な悪ではない。
少なくともそれには償いの余地がある、という理屈が成立する。
ふーむ。自明といえばあまりに自明なことのように見えるが、
しかしまあ自明に見えることほど疑ってかかる余地があるというものだ。
何故、アルセーヌ・リュパンにあっては「殺し」はしない、ということが、
一種の倫理的規制として成立することになるのか。
ふむ。何故だろうか。


少し話を変える。
大泥棒がある種の「義賊」として成立する要件とは何であろうか。
それは「天網恢恢疎にして漏らさず」にはあらず、という認識が社会に共有されているということにある。
(それは司法・警察機構の不完全さという「事実」によって確認されることになる。)
そこに窺えるのは、第一に宗教の威信の失効であり、
第二に、社会における階級差の存在であろう。
この世には陰で悪いことして儲けている奴がいる、
というのはまあいつの世にも見られる概念ではあろうけども、
貧富の差が社会階層と直結するブルジョアの時代にこそ強く意識されるものではあるまいか。
(貧富が階層を決定するということは、階層が流動化するということでもある。)
その不公正を是正するためなら不完全な「法」を破ることも許されていい、
それが「義賊」を成立させる条件である。
ということは、義賊とは近代資本主義社会において初めて登場するものだ、
と大見得を切ってみたりしてみる。
だがそういう社会というのは、裏を返せば道徳的規範が形骸化した社会だ、
ということにもなりうる。
法律が金持ちの財産を守るためにしか機能していないと見なされるということは、
あるいは法と倫理とが完全に離反してしまった社会と言うべきか。
正義と善とが同一ではない(と暗暗裏に考えられている)社会。
義賊とは、その不全を修復しようとする者のことだ。恐らく。


まあつまり、そういう社会観にあっては、
泥坊稼業というのは不健全に停留した資本を正しく流通させる営為である、
といえなくもないわけだ。
大きく言えば、失効した「神」の代理人として立つ「義賊」にあっても、
しかし人の生死は「人間」の司れる領域ではないのであり、
義賊としてのモラルの境界はそこにあることになる。
かくして「殺し」はご法度という戒律が生まれるのである。


と、くだくだしく述べたててももう一つぱっとしない気もするけども、
無い袖は振れぬ哀しさよのお。
それはともかく、以上のことと、
ルブランにはあからさまな貴族の称号への憧憬というか羨望というかがある、
ということとも、なんか繋がっているような気がするので、
その辺り要再考の次第。