えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

タイトルの語ること

精神的にゆとりがないとブログなんて書けないわ。
とかなんとかぶつぶつと。


おもむろに『女の一生』のタイトルを考える。
原題Une vie はどうしたって「ある一生」「一つの人生」という意味である。
身も蓋もないタイトルだ。
『ボヴァリー夫人』に倣うなら『ド・ラマール子爵夫人』となったところだが、
第一に「妻」であることは問題のせいぜい三分の一に過ぎず、
第二に、姓が問題となるのは「社会」の内でのことであるから、
ほとんど没社会的なジャンヌの人生にこの題はそぐわない。
もうひとつの可能性は古典的に『ジャンヌ』というものであり、
『フェードル』から『アンディアナ』を経て『ナナ』まで、ヒロインの名を冠する作品は数知れないが、
モーパッサンはこれを取らなかった。
『ジャンヌ』(じゃなくて良かったとしみじみ思うが)から『ある人生』へ、
固有名からなかば匿名への移行の意味することは、
端的に言って、ジャンヌとは文字通り「主人公」の名に値しない人物だということだ。
そこにl'humble vérité「ささやかな真実」という副題が付される時、
(不定冠詞の主題に対し、こちらは定冠詞で「これぞ真実」と強調されている)
作者の「言いたいこと」はかなり明瞭であるように思われる。
誰のものでもあるような一個の人生の内に、誰しもに共通する普遍的な「真実」を見出すこと。
一般性・普遍性への強い志向性が、このタイトルには現れている。
そうであれば、ジャンヌの人生とは、個別的特殊的なものである以上にはるかに、
匿名的・一般的な性質を備えたものであるのだろう、そう人は想像する。
つまり、彼女は一個の「典型」として描かれる。


だがそれにしては、なんという人生であることよ。
と、この作品を読んだ人は大抵思うだろう。私だってそう思う。
18歳の時点で夢と希望に溢れていた少女が、あれよあれよという間に結婚するや、
後には失望、絶望、悲嘆と孤独のオンパレード、まさしくここを過ぎれば「涙の谷」。
これをして「典型」というなら、一体、ジャンヌはいかなる「典型」であるというのか。
という問いについて、少しばかり考えてみる。


物語冒頭のジャンヌの初期設定は「無垢」の一言に尽きるといってよい。
修道院で(文字通りに)汚れなく育った彼女は、そのままノルマンディーの自然の中に放たれる。
彼女にあるのは幸福への希望と、将来へのあまりに漠然とした夢想だけだ。
野山を駆けめぐり、海水浴に恍惚とする自然児ジャンヌ。
彼女の幸福は、この自然との一体化のうちにこそ存在するものだった。
そこに男が一人登場し、そして結婚が決まる。
その時、すべてが始まると同時に、すべての破産はすでに確定していたのである。
女の一生」とはつまり、娘として、恋人として、妻として、母として生きることであり、
すべては他者(もっぱら男性)との関係性の内(だけ)にある、
というのが、恐らくは作者が暗に言わんとしていることであるが、
それが彼女の「現実」であるとすれば、ジャンヌは徹頭徹尾その「現実」に適合することができない人物である。
両親も、夫も、乳姉妹も、親友も、子供も、彼女を取り囲むすべての人物が彼女を「裏切る」が、
それは実のところは、彼らの意思と関係しているわけでもないのだ。
ただ、二人の人間の間には常に超えられない深遠が存在し、
それ故に完全な和解・融合はありえないという厳然たる事実が、
ジャンヌの幸福を不可能なものとするのである。


女の一生』は広い意味での「社会」を描こうとする自然主義的な理念には遠く、
ほとんど社会関係の存在しない田舎に、ごく限られた人物だけを登場させている。
野性児ジャンヌが、ごく基本的で根源的な対他関係(原初的な「社会」)の中に放り込まれた時に、
一体、何が起こることになるのか。
女の一生』とはつまり、「自然」と(原理的な)「社会」を対立させることによって、
この「社会」(つまり人間関係そのもの)なるものが如何様なものであるかを浮き彫りにさせようとする試みである。
その意味において、これをモーパッサン流の「実験小説」と呼べないことはない。
「無垢」とは「無知」と同義であり、「人間社会」に対する無理解が、
ジャンヌの不幸の原因と言ってよいであろうが、
言い換えれば、人間であるということは、「汚れて」いるということとほとんど同義である、と、
作者は言っているように思えるのは私だけであろうか。
いずれにせよ、典型としてのジャンヌとは、ある種ルソー的な意味での「原初的人間」としてのそれである。
言い換えれば、彼女は大人になれなかった子供そのものである。
女の一生』の物語は、その意味で、我々にある種の郷愁の念のようなものを
起こさせるのではないだろうか、と私は思う。
子供のままでは生きられない。
大人になれば誰でも知ってはいるが、もはや普段の意識に上りもしないようなこと。
それこそが「さささやかな真実」というものではないだろうか。