えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

一杯一杯

暑さも加わって一杯一杯の日々を過ごす間に、あっという間に一月経ってしまう。
6月18日、ついで昨日とマラルメ「詩の危機」3、4回目。
「詩を書くこと」versificationが先にあって、
その後に韻律法prosodieは確認されるのであって、
韻律さえ守れば詩ができるというものではない。
そういうわけで、12音の枠内のリズムの多様性が味わわれる第一段階
疑似アレクサンドランを混ぜ込むレニエ、偽詩句のラフォルグの第二段階を経て
「自由詩」ないしマラルメの言う「多型」詩の時代が到来する。
モレアス、ヴィエレ=グリファン、カーン、シャルル・モーリス、ヴェルハーレン、デュジャルダン、モッケル等々。
かくして数世紀来の偉大なるオルガン(に比すべき韻文定型)に対し、
各個人固有の楽器の演奏が成されるにいたったが、
私(マラルメ)としては過去の芸術が失われたわけでは何らなく、
荘厳なる伝統に人は従い続けるであろうし、
その優位さは規範たる精髄 génie classique に依拠するものであると言いたい。

Toute âme est une mélodie, qu'il s'agit de renouer ; et pour cela, sont la flûte ou la viole de chacun.
(Mallarmé, "Crise de vers", in OEuvres complètes, Pléiade, t. II, 2003, p. 208.)
どんな魂も一個のメロディーであり、それを再び結び合わせることが問題なのだ。そしてそのためにこそ、各人のフルートやヴィオールは存在している。
マラルメ、「詩の危機」)


minorienさんはじめまして、コメントと星をどうもありがとうございました。
なんだかんだいっても、やはりジュリアンの存在には説得力がありますよね。
こういう人おりそうやなあ、困ったもんやなあ、という。
人間の弱いところを見つめるモーパッサンの目の正確さと容赦なさの成せる技かな、
と思う次第であります。
トルビヤック神父に関しては、彼もしかし可哀そうな人物ですよね。
一途な信念を抱く者が、周囲の無理解にあってどんどん意固地になるあまり、
ファナティックな奇人に成り果ててしまう、というのも、
これまたありそうな話ではないかと思います。
教義や理念に凝り固まるあまり、「自然」から離反してしまうと、
本人も周囲の人間もあんまり幸福にはなれない、ということを
作者はトルビヤックを通して示したかったのかと思います。
ところが、では「自然」の導くままに行動するとジュリヤン君になってしまうのである。
実に困ったことだ。
私としては時にモーパッサンに言ってみたくもなる。


――先生、そいじゃあいったいどうすればいいとおっしゃるんですか。
――それはもう、君、観念したまえということだな。はっはっはっ。


妄想はともかく。
「ある人生」を目の前に提示された時、人は「人生とは何か」という問いを抱くだろう。
それは同時に「人生とはこれこれのものだ」という答えを期待するということだ。
だけれども作者は答えを示さない。
人生には答えなんか無い。答えがない、というそのことこそが「人生」というものなのだ。
恐らくは。
人生の「意味」とは、各人各様に考え、与えるよりないものなのだから、
よく考えたまえ、とモーパッサンは読者を促す。
我こそは答えを知れり、という自負を持っていた筆頭者にたとえばバルザックがいるとすると、
モーパッサンが自らの最初の長編で試みたことは、
バルザック的な小説のあり方への異議の提示だったと言えるかもしれない。


というようなことを改めて考えたりしました、
というのでご返事にかえまして。
どうぞ今後もよい読書を。