えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『読書術』とゆっくり読むこと

ファゲ『読書術』表紙

 Tsさんに存在を教えてもらって、そんな翻訳が出ていたなんて知らなかったなあ、と感動したので読んでみた本。

 エミール・ファゲ『読書術』、石川湧訳、中条省平校注、中公文庫、2004年

もとは戦前に出ていたものの復刊であり、ごりごりの直訳調は今となっては結構読みにくいが、しかしこれがなかなか興味深い。

 エミール・ファゲ(1847-1916)は長く学校教師を勤め、最後はパリ大学で教鞭を取った。その傍ら新聞・雑誌に評論を多数寄稿、著作も多く、1900年にアカデミー会員にも選ばれている人物。なんと、モーパッサンとまったく同時代の、いわゆる講壇批評家の一人である。

 ではあるがしかし、ファゲは「まえがき」において、自分は「享楽」のための読書の技術を説くと述べている。そして第一章の題は「ゆっくり読むこと」。

 読むことを学ぶためには、先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして、単に諸君によって読まれるという名誉を持つであろう最後の書物に至るまで、極めてゆっくり読まねばならぬだろう。書物はこれを享楽するためにも、それによって自ら学ぶためあるいはそれを批評するためと同様にゆっくり読まねばならぬ。

(エミール・ファゲ『読書術』、石川湧訳、中公文庫、2004年、13頁。以下、頁数のみ記述。)

 という冒頭の文には、膝を打って「その通り!」と言いたくなる。「ゆっくり読む」とは、注意深く、反芻し、読みながら考えるということであろう。読書は急いではいけないし、焦ってはなおいけないのだ。

 本書は第2章「思想の書物」、第3章「感情の書物」、第4章「戯曲」、第5章「詩人」とジャンル別に語り、第6章「難解な作家」、第7章「悪作家」について述べ、第8章で「読書の敵」(自尊心・臆病・激情・批評心)を取り上げ、第9章で「批評の読書」の意味を、第10章で「読み返すこと」の意義を論じ、第11章「結語」で終わっている。

 ここでは第3章だけを取り上げて、「ゆっくり」と読んでみることにしたい。

 第3章で扱われるのは基本的に小説の読書である。この場合、最初に必要なのは「身を委ねる」(40頁)ことだと著者は言う。

虚構によるかかる我々の自己領有はかなり奇妙な事柄である。それは一種の陶酔である。すなわち、我々の個性の喪失であり、かつ同時にその増大である。それは暗示的な状態である。我々を熱中させる小説を読みながら、我々はもはや我々自身ではなく、我々の前に提示された人物たちのなかに、またホラチウスがいみじくも言った如きマグスすなわち催眠術師によって描かれた場所のなかに生きているのである。そこには我々の個性の喪失がある。

(41頁)

  しかしこの自己喪失は同時に「個性の増大」でもある。なぜなら、我々よりも一層力強く、充実して生きる人物たちの「借り物の自我」を受け入れることによって、私の自我も成長するからだ。「我々自身の魂は、自分が受取る他人の魂を包み、そしてそれによって見事にあるいは少くとも我々にとって見事と思われる仕方で、滲透されかつ豊富にされる」(42頁)ことを、我々は感じる。

 「感情の著者」に対する時にはこの嗜眠状態が絶対に必要だが、しかし覚醒し、「心を取り直し反省すること」(43頁)にも新しい喜びがある。感情によって登場人物を生きる経験をへた後には、理性によって検討を加える時が来るというわけだ。

 作品の内容についてその真偽を判断する時、我々は各自、「自己の周囲の人々を観察するかなり大きな習慣」(44頁)を前提としている、とファゲは言う。そして、自己の経験に照らし合わせることで、小説が「確実に人生を写した――というよりも寧ろ人生の特徴を一層力強く示すように人生を変形した」と思える時、人は「激しい嘆賞の感覚」(45頁)を感じる。

小説は、もしそれがよい小説であるならば、我々を逃れていた人生、我々の怠惰な攻撃から半ば逃れていた人生そのものを捉えるべく我々を援助する。

(略)我々はかくして現実から虚構に赴く。そして虚構が我々にとって価値を持つのは、ただそれが我々の眼から見て現実に浸透されているからである。そして現実は、我々が現実に浸透された虚構を通過したのちに、そこに立帰って来るとき、我々にとって一層興味深い。

(45-46頁)

  相変わらず訳文はいかんともしがたいが、つまり優れた小説によって「現実」が、それまでの私によってよりも一層明確に、鋭敏に把握されているのを理解することによって、私の世界観は鍛えられ、よりクリアなものになり、また「現実」を新たな視線で眺めることが可能になる、ということであろう。

 さらにファゲは、虚構を判断するための「もう一つの基準」として「我々自身の内部を眺めること」(46頁)を挙げる。我々は各自一つの世界であり、すべてのものが萌芽として存在しているのであるとすれば、小説はその潜在するものを凝縮して形にするのだというのである。

虚構、 それは常に作者の手中においてある人物と成った我々の一部分であり、他の人物と成った我々の他の部分である。以下同様。そして我々が判断するのも、我々自身の上に立帰ることによってであるのが最もしばしばである。

(47頁)

  だから我々は、登場人物のそれぞれの内に「自分」を発見することになる。またそれができるためには、読書には「自己心理の分析の能力」(47頁)が必要とされるだろう。

 時に虚構は我々に「驚異」を抱かせる。初めは「これは真実ではない!」と反発を抱かせるが、やがて「あり得ないことではない」と考えるに至らせる。

それは、我々の魂の未だ知られざる奥底が半ば我々に啓示されたからであり、この外からの援助によって無意識の一部が我々の意識の中に入ったからであり、我々が我々自身を従前よりは一層深く眺めるからである。

(48-49頁)

  そこにあるのは、自分の知らなかった自分の発見である。

 話はこの後もまだ続いていくのだけれど、ひとまずここまでとしておこう。煎じ詰めれば、読書とは無意識的・意識的な二重の体験を経ることによって、自己の感受性をより広く豊かなものにし、また他者や自己に対する認識と理解を広げ、また深めてくれるものだ、そんな風に要約できるのではないだろうか。

 なるほど、そのように簡約してみると、これは言葉の本来的な意味における「教養主義」的な読書観であることがよく分かる。実際、そうに違いあるまい。なにしろ原著は1911年に出版されたものであり、最初の翻訳は昭和9(1934)年に出ているのである。もっとも最初に確認したように、ファゲは「享楽」のための読書を語っているのであり、本書は決して説教臭いような代物ではない。しかし彼が読書の「効用」を語るとき、その根底に教養主義的思想が存在しているように見える。

 そしてこんにち、このような教養主義的な見方がかえっていささか目新しく見えるとすれば(だからこそ復刊もされたのだろうと推測される)、それは、このような教育的読書観が、50~60年代にアカデミックな世界を席巻したヌーヴェル・クリティックによって、徹底的に厭われ、切って捨てられ、忘却されたからだと、少なくとも理由の一端はそこにあるのだと言って間違いではないだろう。

 「テクストの快楽」が「人格陶冶のための読書」を駆逐した。かくして我々は「修身」から解放された。

 だがそのようにしてひとたび人が自由になった後、70年代から80年代にかけて、アカデミーにおいて書籍がいわば知的遊戯によって弄ばれている間に、巷では一般の人々の古典離れが着実に進行していたのではなかっただろうか。その二つの現象の間に、関係はなかったと言えるのだろうか。

 もっとも、実際のところは、両者は同じ時代の趨勢における二局面に過ぎなかったのであり、どちらかがどちらかの理由であるというようなことはなかったのかもしれない。きっとそんなものなのだろう。

 こんな風に話を進めていくと、まるで自分が保守反動の老人のように思えてくるから、我ながらいささかげんなりしてくる。なぜ私がこんなことをくどくど綴っているのかというと、職業がら、昨今、「古典読書の意義」をどのように説くことが自分にできるのかを考えているのだが、結局のところ、自分が行き着いてしまうのがファゲ流の教養主義的読書観以外にないという事実が、今の私にとっての大きな課題であるからなのだ。

 テクストの快楽が、今時のゲームの興奮と悦楽に勝てるとは、はっきり言って私には思えない。だけれど、若者が自己を自ら育てるためには(それは必要なことだと私は信じたい)、古典を読むに勝る手段はないのではないか。

 そんな風に思いはするのだけれど、だがしかし、本当にそういうことでいいのだろうか? エミール・ファゲよ、もう一度ということで? また一方では、こんな風に語るとき、結局は私は「功利主義」という罠に陥っているのではないだろうか。そんな疑念にも襲われるから、なおいけない。話は堂々巡りで答を見いだせないことになる。

 というわけでなんだか尻切れとんぼなのだけれど、今日はここまでとしたい。「ゆっくり読む」とは、きっと簡単に答を見いだすことではないはずだから、これはこれでよしとしたいと思う。

 ゆっくり読んで、よく考えること。答えはいつか見つかるだろう。

 二つの教育がある――第一は人が学校において受けるもの、第二は人が自分に与えるところのもの。第一の教育は不可欠である。しかし価値のあるのは第二の教育しかない。

(「第九章 批評の読書」、216-217頁)