えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『あしながおじさん』/シャルル・アズナヴール「世界の果てに」

『あしながおじさん』表紙
 「ガイブン最初の1冊」を探すなかで読んだ本の記録。

 ジーン・ウェブスターあしながおじさん』、岩本正恵訳、新潮文庫、2017年

 これは大学生ジェルーシャ・アボットの自立へ向けた成長の過程が、彼女の書簡によって描かれていく物語だ。ジェル―シャの姿は瑞々しく生彩に富んでおり、真っすぐに生きる彼女はけなげで愛おしい。そこに、この本が長く読まれている理由があるだろう。

 しかし、結果として、彼女は最後まで「あしながおじさん」の完全な保護の下に留まり、そこに、帯に言う「奇跡のように幸せな結末」が成り立っている。そのことに、私は困惑(あるいは苛立ち)を覚えずにはいられなかった。

 原著刊行は1912年、著者は名門のヴァッサー大学(当時はもちろん女子大)卒業後、フリーランスのライターとして生業を立てたというから、当時のアメリカにあっては十分に「進んだ」女性であったのだろう。その彼女が生み出したのが、この「あしながおじさん」の物語であったということ、そのことをどのように評価するべきなのか、今の私ははっきりと断定できないでいる。

 また、この物語は21世紀の現代にあっては、そのイデオロギーにおいてすでに古びてしまったのではないか、というのが個人的な感想なのだけれども、果たしてその意見の正当性はどれほどのものだろうか。それはしょせん、30代半ばのジャービーよりもすでに年を経た、しかも男性である私の価値観がどこにあるかを示しているに過ぎないだろうか。

 改めて考える時、私は「自立」とか「独立」といった観念が自分にとって相当に重要な意義を持っており、自身のアイデンティティに深くかかわっていることを認めないわけにはいかない。私の「あしながおじさん」に対する反発は、偏にその点にかかっていると言っていい。そんな私が想像する、現代版にリライトされた『あしながおじさん』にあっては、ジェル―シャは「あしながおじさん」に決然と別れを告げて立ち去ることだろう。そうであってほしいと、心から思う。

 だが、しかし。「自立」や「独立」を尊ぶという意識も、考えてみればそれ自体、「個人主義」という現代の趨勢たるイデオロギーに依っているに過ぎないのかもしれない。と同時に、自分の価値観を捨てきれない私は、この本の「読者」としての資格を持ちえていないのだろうか、という疑念も拭いきれない。

 おじさま、だれにとっても一番必要な資質は、想像力だとわたしは思います。想像力があるからこそ、人はほかの人の立場になって考えることができます。想像力があるからこそ、人は親切な心と思いやりと理解を示すことができます。想像力は、子ども時代に培われるべきです。けれどもジョン・グリアー孤児院は、想像力がほんの少しでも表れると、即座に踏みつぶしました。義務を果たすことだけが、奨励される資質でした。わたしは子どもが義務という言葉の意味を知るべきだとは思いません。ほんとうに嫌な忌わしい言葉です。子どもはなにをするにも、愛が基本にあるべきです。(131-132頁) 

 いかにもジェル―シャの言う通りだ。100年以上前のアメリカの一人の女子大学生(彼女には身寄りがいない)の「立場」になって考えること、そのことの本当の意味での「難しさ」について、今も考え続けている。

 

 ヴァネッサ・パラディのカヴァーで知った曲。Charles Aznavour シャルル・アズナヴールの "Emmenez-moi" 「世界の果てに」(1967年)。北国の港で働く男が南国を夢見る歌。INAのアルシーヴより、1972年の映像。腕の動きがなんとも言いがたい味わいを生んでいる。

www.youtube.com

Emmenez-moi

Au bout de la terre

Emmenez-moi

Au pays des merveilles

II me semble que la misère

Serait moins pénible au soleil

("Emmenez-moi")

 

連れて行ってくれ

地の果てまで

連れて行ってくれ

素晴らしい国へ

太陽の下では、惨めさも

まだましなように思えるんだ

(「世界の果てに」)