えとるた日記

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『カルメン/タマンゴ』/ミレーヌ・ファルメール「私は崩れる」

『カルメン/タマンゴ』表紙

 メリメ『カルメン/タマンゴ』、工藤庸子訳、光文社古典新訳文庫、2019年

カルメン』については昔にも何か書いたことがあるなあ、と思い出して読み返すと、2010年の記事だった。

カルメン - えとるた日記

 『カルメン』は自由の象徴だという読みはまあ常識的なものだと思うが、しかしまあロマンチックなことを書いていたものだと気恥ずかしくもある。

 それはともかく、この9年の間に日本で大きく変わったことが確かにあり、それはドメスティック・ヴァイオレンスについての認識の普及だ。率直に言って、今回の再読で私が思ったことの第一は、ドン・ホセは今なら「ストーカー」と認定されるに違いないということである。

 ドン・ホセはカルメンに一目ぼれしたが最後、彼女のために身を持ち崩し、殺人を犯し、密輸人から果ては盗賊へと身を落とす。カルメンはホセを自らのロム(夫)と認めはするが、何より自由を大事にし束縛を拒む彼女であってみれば、自分がホセだけのものになることを受け入れられるはずはないのである。

- Je t'en prie, lui dis-je, sois raisonnable. Ecoute-moi ! tout le passé est oublié. Pourtant, tu le sais, c'est toi qui m'as perdu ; c'est pour toi que je suis devenu un voleur et un meurtrier. Carmen ! ma Carmen ! laisse-moi te sauver et me sauver avec toi.

(Mérimée, Carmen, Livre de poche, 1996, p. 138.)

 

「お願いだ」と、私は彼女に言いました。「道理を分かってくれ。俺の言うことを聞いてくれ! 過去のことは全部忘れる。だがな、おい、お前が俺を破滅させたんだぞ。お前のために俺は泥棒になり、殺人まで犯したんだ。カルメン! 俺のカルメン! 俺にお前を助けさせてくれ。そして、お前と一緒に俺を助けさせてくれ」(拙訳)

 ホセにとって、カルメンは自分のすべてを犠牲にした存在であり、その彼女を失うことは、自己を失うことにも等しい。だから彼にはカルメンを手放すことができない。もし彼女が言うことを聞かないなら、彼女を殺すしかない。それがホセの側の論理であるが、その論理がこの21世紀に一般的に受け入れられるとは言えないだろう。ホセが「俺のカルメン」と所有形容詞をつけてその名を呼び、「俺にお前を助けさせてくれ」と言うところに、カルメンを自分の所有物と見なす思考がはっきりと表れているが、現代においてその見方はあまりに身勝手で独善的なものだと映るのではないか。

 だとすれば、現代人の目にカルメンはどう映るのか? 「魔性すぎる女」? いや、カルメンを「ファム・ファタル(宿命の女)」といった文学史的用語で語るのは、もはや時代錯誤と言うべきではないか、と今の私は思うのだ。

 カルメンは自分の人生を誰に指図されるでもなく自分で決める女性である。今の私たちは「ただそれだけである」と言うべきかもしれない。メリメの時代には彼女のような存在は特殊かつ例外的であり、恐らくは作者自身でさえ、そのような女性の生き方を完全に肯定してはいなかっただろう。作家はあくまで自由を尊ぶ放浪の民、ジプシーの象徴としてカルメンを造形しており、その限りで彼女はいわば民俗学的好奇心と観察の対象であった。『カルメン』は徹頭徹尾「ジプシー論」として書かれており、そのことはカルメンの死、そしてドン・ホセの最後の台詞、

罪があるのはカーレ〔ジプシーの男女〕の連中です。あんなふうに、女を育ててしまったのですから。(工藤庸子訳、172頁)

 の直後に、第4章のジプシー概論が連続していることに明らかではないか。カルメンカルメンたるゆえんは彼女がジプシーであることに求められるのであり、だからこそ語り手はそのジプシーとはいかなる者かを、語らずにいられないのである。

 ドン・ホセが今や現代のストーカーに過ぎないとすれば、カルメンもまた独立独歩する数多の現代女性の一人なのではないか。『カルメン』はもはやエキゾチスムあふれる「異邦の女」についてのファンタジーではなく、我々にとってごく身近で、それゆえに一層に切実な物語になったのではないか。 作者の個人的思想が古びた後に残ったのは、いわば原型としての男女関係の一つの普遍的な様態ではないか。

 以上が、9年ぶりの再読で私の考えたことのあらましだ。

 最後になるが、上記のホセの台詞にはあえて拙訳を付した。以下に改めて翻訳を引用する。

「お願いだ」と私は言いました、「理屈をわかってくれ。おれの話を聞いてくれ! おきてしまったことは全部水に流す。だけどなあ、わかっているだろ、おれの一生を台なしにしたのはおまえなんだ。おまえのために、おれは泥棒になり、人殺しもやった。カルメン! 私のカルメン! あんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょに私の身も救えるようにしてくれ」 

(工藤庸子訳、170頁)

 細部をつかまえて揚げ足を取るような真似はしたくないのだけれど、この決定的な場面でホセが「私のカルメン」というのは、私にはどうしても納得できかねるし、「あんた」という言葉はもう死語ではないだろうか。その点だけが、ごく個人的に、今回の新訳で惜しまれることだった。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメールが2019年に行ったライヴのクリップ。曲は2010年のアルバム Bleu noir『ブルー・ブラック』所収の "M'effondre"「私は崩れる」。すべてを放擲してでも観に行くべきだったのだと後悔しつつ。

www.youtube.com

Je... fais tout un peu

Rien… n’est comme je veux

Me dissous un peu

Me divise en deux

Mais là

 

M’effondre

M’effondre

 

Tout vole en éclat

Mes sens et puis mon choix

Pas d’existence

Mais vivre ma transparence

Mais là

 

M’effondre

M’effondre

M’effondre

M’effondre

 

Jusque là tout va

Jusque là tout va bien

(M'effondre)

 

私は……すべてを少しだけする

何も……思うようにいかない

少しだけ溶ける

二つに分裂する

でもそこで

 

私は崩れる

私は崩れる

 

すべては飛び散る

私の感覚、私の選択

存在はない

でも私の透明を生きる

でもそこで

 

私は崩れる

私は崩れる

私は崩れる

私は崩れる

 

ここまではすべて順調

ここまではすべてが順調

(「私は崩れる」)