えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ドレフュス事件を思い出す/セルジュ・ゲンズブール「Sea, sex and sun」

ゾラ『時代を読む1870-1900』表紙

 上に立つ者が不正を行い、それを隠蔽しようとすることで下の者が犠牲を被る。そうしたことが今の世の中に起こっているというのなら、仏文学者たるもの、そういう話はよく知っていると言わなければならない。ドレフュス事件のことだ。

 軍人アルフレッド・ドレフュスは無実の罪で有罪宣告を受け、流刑として南米ギアナに送られた。より重要な問題は、後にエステラジーが真犯人であることが発覚したのに、彼が裁判の末に無罪とされたことにあった。

 なぜ無罪判決が出されたのか? エステラジーの罪を認めること、それはドレフュスの有罪判決が誤りだったと認めることであり、そうなればそこに責任問題が発生する。それを嫌った陸軍の上官たちは、エステラジーを無罪とし、真実を闇に葬ろうとしたのだった。

 1898年1月13日、エミール・ゾラは新聞『オロール』紙に「共和国大統領への手紙」を発表。事件にかかわった者たちを「私は告発する」の言葉で弾劾した。ここでは、事件後に陸軍大臣となったビヨー将軍に対する批判を読み直そう。真実を告げるピカール中佐の調査結果を受け取った後の彼の反応について述べられている。

 ここには、苦悩に満ち満ちた心理学的瞬間があったにちがいない。思うに、この時点でビヨー将軍は事件にまったくかかわりをもっていなかった。彼は何も知らずに大臣の座に就いたわけであるから、真実を明るみに出そうと思えばできたはずなのである。しかし、彼は、あえてそれを行おうとしなかった。おそらくは世論を恐れる気持ちからであったのだろう。また確実に、参謀本部全体、ボワデッフル将軍、ゴンス将軍とその部下たちを見殺しにすることへの恐れがあったにちがいない。しかし、彼の良心と、彼が陸軍の利益と信じたものとのあいだの葛藤の時はほんの一瞬にすぎなかった。この瞬間が過ぎ去った時、事はすでに手遅れであった。彼は完全に事件に巻き込まれ、その当事者となったのだ。そして、この時から、彼の責任は重みを増す一方であった。彼は、ほかの人々が犯した罪まで背負い込み、ほかの人々と同じぐらい罪人となった。むしろ、ほかの人々以上の罪人というべきかもしれない。なぜなら、彼は正義を行うことのできる立場にありながら、実際のところ、何もしなかったからである。こんなことがあってよいものだろうか! ここ一年来、ビヨー将軍、さらにはボワデッフル、ゴンス両将軍がドレフュスの無実であることを知りながら、この恐るべき事実を彼らだけの胸にしまい込んできたのだ! こうした人々が、夜ともなれば安眠をむさぼり、愛する妻子に囲まれて暮らしているというのだから!

エミール・ゾラ「共和国大統領フェリックス・フォール氏への手紙」、『ゾラ・セレクション 第10巻 時代を読む』、小倉孝誠、菅野賢治編訳、藤原書店、2002年、258-259頁)

 自らの保身のために、あるいは自身の属する組織の秩序を乱さないために、真実を隠蔽すること。それは許されるべきではない行為であり、ゾラの告発の言葉はいかにも容赦ないものだ。もちろんゾラは本気だった。彼はこの告発によって、自分が軍に対する名誉棄損で訴えられることを覚悟していたし、現にそのようになる。それでも作家としての使命感ゆえに、自らの社会的生命を賭して告発することを選んだのだ。

 そのゾラの決然たる姿勢は立派で称賛に値するものだけれども、しかしここで、私にとってはビヨー将軍の惰弱さも決して他人事ではない、ということを述べておかないといけない。そうでなければゾラの尻馬に乗るだけのことになろう。虎の威を借る狐というやつだ。

 もし私がビヨーのような立場に置かれたのだったら、私はどのように行動できただろう。できるだろう。その自問に対する答は、はなはだ心もとないものだと認めざるをえない。黙っていることは簡単だ。知らなかったという言い訳はいつでも可能だろう。正義という言葉は美しい。だが掛かっているのは自分の生活であり、あるいは身内のそれでもあるかもしれない(年を取るというのは難儀なことだ。若い時には分からなかったこと、分かろうとしなかったことが、今ではよく分かる)。

 べつに私はビヨー将軍(と、彼が代表しているもの)を擁護しようというのでも、そうしたいのでもない。「正義を行うことのできる立場にありながら、何もしなかった」のであれば、その罪は咎められるべきなのだ。ただ、だからこそ惰弱な私は、自分がそのような立場に立つことを怖れ、我が身がそのような状況に置かれることのないように願うのである(その保証はどこにもない)。それ以上のことを言うことは、今の私にはできそうもない。

 なのでもう一度、ゾラの言葉に真摯に耳を傾けたい。

以前にもまして熱のこもった確信とともに、ここに繰り返します。真実は前進し、何ものもその歩みを止めることはないであろう、と。事件は、今日ようやく始まったばかりです。今日ようやく、人々の配置が明らかになったからです。つまり、一方に、光明がもたらされることを望まない罪人たち、他方に、光明がもたらされるためならば命さえ惜しまない正義の人々。すでに別のところでも述べたことを、ここに繰り返し申し上げましょう。真実というものは、それを地中深く埋め込もうとすればするほど、鬱積し、爆発力を持つようになるものである。そして、それが実際に爆発する時、ありとあらゆるものを吹き飛ばさずにはおかないような力を蓄えるようになるものである、と。

(同前、267頁) 

  私は、自分の学問を空疎なお飾りにしたくないし、そうしてはいけないと思う。口ではヴォルテールやゾラを称えていながら、自分の行動が伴わなければ、そんな学問に意味はないし、それは学問に対する冒涜になるかもしれない。だとすれば、どうすれば本当に学問を自らの血肉とすることができるだろう。ゾラの言葉を読み返しながら、そうしたことを考えている。

 

 いささかやさぐれた気分なので、セルジュ・ゲンズブールの "Sea, sex and sun"。INAのアーカイブより、1978年の映像。さすが、という言葉しか思いつきません。一緒にいるのはミッシェル・コロンビエ。

 t の音で韻を踏むのだけれど、そこで出てくる単語が bakélite とか hit であるところ、天才と呼ぶしかない。

 www.youtube.com

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Vingt ans, dix-huit

Dix-sept ans à la limite

Je ressuscite

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

Tu es d'la dynamite

 

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Me surexitent

Tes p'tits seins de bakélite

Qui s'agitent

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

C'est sûr, tu es un hit

("Sea, sex and sun")

 

Sea, sex and sun

太陽は天頂にある

二十歳、十八

ぎりぎり十七歳

俺は生き返る

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

お前はダイナマイトさ

 

Sea, sex and sun

太陽は頂点にある

俺を興奮させる

ベークライト色のお前の小さな胸が

揺れているぜ

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

確かに、お前はヒットさ

("Sea, sex and sun")