えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

抹消された α と β /イズィア「波」

 2月11日(土、祝)は関西マラルメ研究会@京都大学文学部仏文研究室。4名。

 「部屋からの外出」に関する草稿の内のアルファ稿、およびベータ稿の途中まで。プレイヤッド版では851-853ページ。

 閉まるドア、振り子の音、廊下、磨かれた壁に映る影、螺旋階段、心臓の脈動、鳥の羽ばたき、大文字の「夜」、といった要素を繰り返し用いながら、恐らくは真夜中、時計の音=鼓動の消滅と同時に純粋自己意識(みたいな何か)が確立せんとするその時に、ふたたび心臓=扉の物音が聞こえ……、という場面の変奏らしきもの。ただしこのアルファ稿、ベータ稿は作者の手によって大きく✕が記されており、ボニオ版には収録されなかった完全な下書きであり、とりわけ修正の多いアルファ稿は不明の箇所が多い。ベータ稿では一転して「夜」の意識内容が述べられ、構文的には平易さが増しているが、それはそれとしてやはり根本的によく分からないテクストである。いやはや。

 次回の読書会は4月15日(土)の予定なり。

 

 ジャック・イジュランの娘、Izïa Higelin イズィア・イジュランはずっと英語で歌っていたが、2015年のアルバム La Vague『波』ではフランス語で歌っている。そのタイトル曲の「波」。

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Je suis la vague qui te ramène

Sur les récifs quand tu te perds

Je suis le soleil qui te brûle

Quand tu reviens nu sur les dunes

Je suis la vague

Qui te ramène

Et le soleil

Tu te rappelles

("La Vague")

 

私は波 あなたを連れ戻す

暗礁の上で あなたが迷う時

私は太陽 あなたに照りつける

あなたが裸で 砂浜に戻る時

私は波

あなたを連れ戻す

そして太陽

あなたは思い出す

(「波」)

BD『かわいい闇』/ストロマエ「パパウテ」

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 この作品を好きだと言う自信も、そのつもりもまったく無いのだけれど、一読、その気色悪い感触が尾を引くことは確かな、どうにも無視できない作品である。

 マリー・ポムピュイ、ファビアン・ヴェルマン作、ケラスコエット画『かわいい闇』、原正人訳、河出書房新社、2014年

 春の森の中で、一人の少女が死ぬ(理由は分からない)。そして、彼女の体内に住んでいた小人たちが慌てて外の世界に出てくるところから物語が始まってゆく。

 この小人たちは皆子どもの姿をしている。彼らは、自分たちだけで自然の中を生き抜いていくために、食べ物を探したり寝場所を作ったりするのだが、子どもなので遊ぶことも欠かさない。その姿は一見無邪気に見えるのだが、この子どもたちには善悪の観念が完全に欠落しているという点が、この物語の「怖さ」を生み出す核だと言えるだろう。彼らは罪悪感を抱くことなく、嘘をつき、欺き、裏切り、時には仲間をいじめ、殺す。葬式ごっこをしてみても、別に本当に悲しんでいるわけではない。

 その一方で自然は容赦なく、春から夏、秋から冬へと季節が巡っていく中で、動物に襲われて、一人また一人と子どもたちの姿が消えてゆく。そうしてそんな彼らのそばにはいつも少女の死体があり、肉が腐って大量のハエが発生し、やがて白骨となって落ち葉に埋もれてゆくのである。

 一年後、森の中の小屋で一人暮らす人間の男のもとに、主人公の少女ひとりが残される。彼女にとっては巨人である男にほのかな思いを寄せるところで物語は幕を閉じるのだが、読者の私は、全編を通して実に居心地の悪い不安感を抱きっぱなしのまま巻を閉じた次第である。この背筋がぞわぞわするような落ち着かない感じは一体何だろうか。

 思えば、子どもというのは(大人からすると)時に奇怪な存在である。昆虫や爬虫類を捕まえて遊んでみたり、さらには手足をもいで殺しても平気だったりするのは、誰もが知るところだ。大人になってしまうと我が事であってももはや理解できなくなるのだが、いや本当にあれは何なのだろう。とにかく、この作品に描かれているのは、子どもの持つそういう面である。純心さや無邪気さとは、言い換えれば善悪や美醜の観念がまだ不在であるということだ。子どもは邪気もなくたわむれているに過ぎないのだが、それが大人の目には奇怪にもグロテスクにも映るのである。「かわいい闇」というオクシモロン的な表現は、そうした「子ども」を指す表現として実に言い得て妙である。その意味で、この作品は思春期に至る前の「子ども」を実によく捉え、描いてみせていると言えるだろう。

 巻末には翻訳者による製作者へのインタヴューが載っていて、その中で、この作品に対する読者の反応は真っ二つに割れたと述べられている。

おそらく子供時代に愛着を持っている人たちには強く訴えかける作品なんでしょうね。逆にイヤな思い出がある人には悪夢のように働くのかもしれません。(98頁)

 してみると私は後者ということかもしれない。さあ、あなたはどちらになるか、一度お試しになってはいかがだろうか。

 いやはや、思い返すだにぞくぞくするようだ。

 

 気分を変えるべく歌を聴く。

 ベルギー出身の Stromaé ストロマエ(はマエストロの逆さ言葉)。2013年のセカンド・アルバム√ が大ヒットし、ストロマエは一躍世界的なスターになった。その後、結婚して現在は休養中の由。今日はストレートに "Papaoutai"「パパウテ」を。ストロマエは1985年生まれ、1994年に(大虐殺があった際に)ルワンダ人の父を亡くしている。"Papaoutai" は "Papa où t'es ?" であり、「パパ、どこにいるの?」のくだけた口語表現(だけど、"Où t'es ?" って普通に言うのかな)。

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Où est ton papa ?

Dis-moi où est ton papa ?

Sans même devoir lui parler

Il sait ce qui ne va pas

Ah sacré papa

Dis-moi où es-tu caché ?

Ça doit faire au moins mille fois que j’ai

Compté mes doigts

 

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es où t’es où papa, où t’es ?

("Papaoutai")

 

君のパパはどこ?

言ってよ 君のパパはどこ?

パパに話さなくても

パパは何が問題か知っているよ

ああ、困ったパパ

どこに隠れたの?

少なくとももう千回も 僕は

指折り数えたよ

 

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこ どこにいるの パパ どこにいるの?

(「パパウテ」)

モーム「赤毛」/イェール「子どものように」

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 「雨」の次は「赤毛」である。これまた嫌な話ではあるのだが、しかし完成度という点では、私は「雨」よりもこちらを取りたいと思う。

 舞台はサモアの小さな島。まず、語りの順序とは無関係に話の要点を簡略に記せば、おおよそ次のようになるだろう。

 アメリカ海軍から逃亡した「レッド」と呼ばれる二十歳の水兵がこの島にやって来て、そこで土地の十六歳の美しい娘と出会い、二人は恋に落ちる。二人は一緒になり、楽園のように美しい島で無上の幸福の時を過ごすが、二年後、出来心を起こした青年は、だまされてイギリスの捕鯨船に連れ去らてしまう。残された女は涙に明け暮れ、四カ月後に子どもを死産する。男の音沙汰はない。

 三年が経った頃、スウェーデン人のニールソン、二十五歳の青年が、病気の療養のために島にやって来て、その美しい娘に見惚れる。周囲も彼との結婚を勧めるが、レッドのことが忘れられない彼女は拒絶する。しかしやがて観念し、ニールソンと結婚するに至る。二―ルソンははじめ、自分の愛情によって娘を幸福にすることができると信じるが、やがてそれが無理なことを理解する。彼女から愛されることのないことを悟った彼は、やがて胸の内で彼女を憎むようになる。そして二十五年の月日が流れた。

 ある日、二―ルソンのところに一人の船長がやって来る。禿げ上がった赤毛の頭、酒ぶくれでぶよぶよに太った醜い男は、何故か知らずニールソンに不快感を催させる。その船長を相手に自分の過去を語り終えたニールソンは、ふと戦慄を覚え、船長に名を尋ねる……。

 失った最愛の男を思いつづける女と、愛する女に愛されることのないままに年を取った男。二人の人間の間に見られるこの絶対的な「相互不理解」は、おそらくモームの文学にとって主要なテーマの一つと言えるだろう。だが、本作の肝はなんといっても、老いぼれた船長こそがレッドその人だったと発覚する場面にある。それが劇的なドラマにはならず、反対に一切ドラマが生起しないままに終わるという点こそが、人生の残酷さを一層に鋭く照らし出すのである。英語の練習を兼ねて原文を引用したい。

  Neilson gave a gasp, for at that moment a woman came in. She was a native, a woman of somewhat commanding presence, stout without being corpulent, dark, for the natives grow darker with age, with very grey hair. She wore a black Mother Hubbard, and its thinness showed her heavy breasts. The moment had come.

  She made an observation to Neilson about some household matter and he answered. He wondered if his voice sounded as unnatural to her as it did to himself. She gave the man who was sitting in the chair by the window an indifferent glance, and went out of the room. The moment had come and gone.

(W. Somerset Maugham, "Red" (1921), in Collected Short Stories, Volume 4, Vintage Books, 2000, p. 509.)

 

  二―ルソンは思わず息を呑んだ。というのはちょうどその時一人の女が入って来たからだ。土地の女だった。どこか犯し難いような、肥満とはいえないが、がっしりした、色の黒い、――土地のものは老衰とともに色が黒くなるのだ――真白な髪の毛をした女だった。黒のマザー・ハバードを着ているのだが、薄い生地を透して、重たげな二つの乳房が見えていた。その時が来たのだ。

 女は家事上のことらしい、二―ルソンに何か言った。彼は答えた。われながら落着かない声の調子が彼女にも気取られはしないかと彼は思った。だが女は、窓際の椅子に座っている男に興味も無さそうに一瞥を与えたきりで、部屋を出て行った。その時は来て、そのまま去ってしまったのだ。

モーム「赤毛」、『雨・赤毛』中野好夫訳、新潮文庫、2012年68刷改版、149-150頁)

  卑しい姿で登場したレッドの存在によって、痛ましくも惨めな悲劇であったはずのものが、一瞬にしてグロテスクな喜劇に変わり果ててしまう。ここに、作者が人生に投げかける、皮肉とも冷酷とも呼びうる視線が冴え冴えと際立っている。

 その上、この作品の含み持つ残酷さはそこに留まるものではない(かもしれない)。結末まで読み終えた読者は、振り返ってみた時に、青年と娘の間の「ただもう生一本な、純粋の愛」(129頁)、アダムとイブの間のような汚れなき愛の物語(と思われていたもの)が、実は二―ルソンの想像の内に育まれた「幻想」でしかなかったのではないかと疑問を抱くことだろう。実際、そう思って読み返せば、彼が「センチメンタリスト」であることが初めに述べられていたのでもある。

 我々は誰しも人生を一つの物語として解釈し、理解するものであるとすれば、この作品は、その「物語」が本質的にフィクションであるという、その〈真実〉を否応なく読者に突きつける。だからこそこの作品は、その嫌な読後感にもかかわらず(あるいはそれ故に一層に)、鋭く我々の心を打つ何かを秘めているのではないだろうか。そんな風に私には思われた次第である。

 

 いつものように話は変わって。

 Yelle イェールの2011年の2枚目のアルバムは、Safari Disco Club 『サファリ・ディスコ・クラブ』。その中の一曲、"Comme un enfant" 「子どものように」。なんだか色々と変なのだけれど、本人が恰好いいからぜんぶ許されてしまう、という感じだろうか。

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Je chante et je pleure, comme un enfant

Je joue à me faire peur, comme un enfant

Je pense tout et son contraire, comme un enfant

Je danse, j'ai le cœur à l'envers, comme un enfant

("Comme un enfant")

 

私は歌って泣く 子どものように

私は怖がらせて遊ぶ 子どものように

何でも その反対も考える 子どものように

私は踊る 吐き気がする 子どものように

(「子どものように」)

BD『オリエンタルピアノ』/ジュリアン・ドレ「崇高にして無言」

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 こんな作品にいち早く目を止めて、翻訳・紹介できたらきっと誇らしいだろうと、そんな風に思わせる作品が時々あるものだが、この

ゼイナ・アビラシェド『オリエンタルピアノ』、関口涼子訳、河出書房新社、2016年

は、私にとってまさしくそうした一冊である。予備知識ほとんど無しで読み始めたのだが、気がつくと虜になっていて、夢中で読み通した。この鮮烈な衝撃はマルジャン・サトラピの『ペルセポリス』以来のものだと言いたいが、しかしこの作品は決してサトラピの二番煎じではない、ということは強く言っておかなければならない。

 舞台はレバノン。(著者とほぼ同人物と思わしい)語り手の曽祖父にあたる、アブダッラー・カマンジャと、語り手の人生とが交互に語られるという構成になっている。アブダッラーは幼いころから音楽が好きで、父の反対を押し切ってベイルートに上京、ピアノの調教を仕事にするようになるが、ピアノによって中東音楽に特有の四半音(四分音)を出すための工学的な解決法を探しつづける。そして遂にその問題を解決し、ペダルを踏むことで四半音を出すことができるピアノを開発し、ウィーンのピアノ会社に売り込みに行く。それが1959年のことで、作品はそこから始まっている。

 一方、物語の語り手(著者自身は1981年生まれ)は、幼い頃からアラビア語とフランス語のバイリンガルとして育ち、ベイルートで勉強した後、2004年にパリに移住し、十年後にフランス国籍を取得するに至る。レバノンにいた時点では、二つの言語は編み物の縦糸と横糸のように(あるいは二種類のミカドの棒のように)分かち難く混ざり合っていたが、フランスに来た後にはそれをより分ける作業が必要となり、そうした経験の中で、自分にとっての二つの言語の意味を確認していくことになる。

 オリエンタルピアノとは言うまでもなく、西洋と東洋という二つの世界を結びつけるものの象徴である。つながりのないはずの二つの世界がつながる場所。著者は、この曽祖父の発明品の内に、二つの世界に生きてきた自分自身の姿を投影する。平均律と四半音、フランス語とアラビア語。双方と共にあり、両方を慈しみながら生きることこそが、自らのアイデンティティーであるということを語り手は学んでいく。「オリエンタルピアノであるということは、パリで窓を開けて海が見えないかなって思うこと」という作中の言葉は、しなやかであたたかく、美しい。

 オリエンタルピアノは多くの歌手にも高く評価されるのだが、結果的には生産に至ることはない。時代が進んでシンセサイザーが登場すると、それによって四半音が容易に出せるようになることで、オリエンタルピアノはもはや不要なものとなってしまうのである。その意味で言えば、カマンジャの夢は挫折に終わったとも言えるはずだが、しかしこの物語が決して暗いものにならないのは、自らの音楽を愛しつづけた人物として、著者が彼の人生を肯定しているからである。

 マルジャン・サトラピと同じように、アビラシェドの絵も、奥行きのない平面的な画面であり、白黒の二色のみで濃淡はなく、その分ベタの黒色が印象的な絵柄となっている。日本の漫画と根本的に異なっているのは、動き、そして時間の表現であろう。日本の漫画のように動線で動きを示すことはまったくないため、基本的に画面は静止しているのだが、その代わりに、コマ送りの画面構成や、一つのコマの中に同じ人物を繰り返し描く、いわゆる異時同図法によって、時間の中にある動きが巧みに表現されている。

 その延長として、音符などの特定の事物を無限に反復して描くことで独特の効果をあげている場面もあり、圧巻は折り込み頁で描かれたオリエンタルピアノを初披露する場面だろう。そこではどこまでも続くピアノの鍵盤が描かれているのだが、そのピアノが平均律の時はまっすぐに、四半音の時には「腰を軽く振るように」波打って描かれる。音楽が見事に空間的に表現されていて、とくに印象的な場面となっている。

 全体を通して、丁寧に描かれた絵柄と、白黒の色の使い方の巧みさが素晴らしく、一頁全体を一コマで描いた頁では、そのはっとさせるような構図や表現が目を引いて飽きさせない。大胆であると同時に繊細でもあり、素朴であると同時に洗練されてもいる。言うまでもなく、作品の主題である西洋と東洋の融合は、この絵の内にまさしく実現しているのである。

 蛇足ながら付け加えておけば、この作品ではレバノンの内戦についてはごく部分的にしか触れられていない。あえてそこには触れずに、ほのぼのと暖かい物語として語り通すことこそが、自らのルーツとアイデンティティーを確認し、承認するというこの作品には適っていたのだろう。決して肩肘張ることなく、微笑みを浮かべている著者の顔が見えるような、そんな優しさに満ちたこの作品、洋の東西を問わず、文学、音楽、美術のいずれかに関心のある人すべてに、自信を持って一読をお勧めしたい。

 

 最後に、Julien Doré ジュリアン・ドレをもうひと押し。『&~愛の絆』より "Sublime & silence"「崇高にして無言」。南仏のカマルグで撮影されたこのPV、大真面目に馬鹿馬鹿しくて、なんだかよく分からないけれど、どうやらそのよく分からないところが味わいらしい。

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Mais je sais que tu restes
Dans les fleurs que j'te laisse
Après la nuit
Violence & promesses
C'est tout c'que tu détestes
La mort aussi

Le vide aurait suffi
("Sublime et silence")
 
分かってるさ きみは
夜が明けても
僕が残してゆく花のなかに居続けるって
暴力と約束
これが きみの大嫌いなものすべてさ
死も嫌がってるね
 
むなしさは充分味わっただろうに
(「崇高にして無言」、大野修平訳) 

モーム「雨」/ミレーヌ・ファルメール「ブルー・ブラック」

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 考えてみるまでもなく、モーパッサン好きがモームを好きにならないはずもない、というものなのだが、これまで読む機会がなかったサマセット・モームをできるだけ読む、というのが私の今年の目標である。

 サマセット・モームは1874年に生まれ(ヴァレリーより3つ下、ジャリの1つ下)、1965年に亡くなっている。長生きだ。戦後の日本ではブームというほどによく読まれたが、その後「煉獄期間」を経て、2000年代より再び読まれるようになってきたという。なるほど。

 モーム『雨・赤毛』、中野好夫訳、新潮文庫、1959年(2012年68刷改版)

 さて、モームの短編の代表作は「雨」ということになっているので、まずはこれから読み直そう(20年ぶりくらいだろうか)。舞台のパゴパゴとはアメリカ領サモアの町だったのか(当時は何にも分かっていなかったに違いない)。そこに足止めされた医師のマクフェイルとその妻、宣教師のデイヴィドソン(と書いてある)が泊まった宿の一階に、ミス・トムソンという女性が泊まり、男を連れ込んでどんちゃん騒ぎをしはじめる。降りやまぬ雨の下、デイヴィドソンと女との戦いが始まる……。

 この作品が有名なのは、その結末の意外性によるところが大きいだろうが、しかしながら、このたびの再読の率直な感想としては、この作品はいささかあざといのではないだろうか、という印象が残った。

 恐らく、意外な結末が優れたものであるためには、その結末が読者にとって予想外であるが、しかし同時に「なるほど」と腑に落ちるものでもある、という条件を満たしていなければならないだろう。その点、この作品では、宣教師ディヴィドソンの頑固一徹な信心ぶりがこれでもかと強調されている(それ故に「落ち」の効果は大きい)のに対し、彼の「弱さ」はほとんど指摘されていないので、伏線が不十分であるように私には思われた。彼の影響下ににわかに回心した娼婦のトムソンは、身だしなみもないがしろにしてひたすら宣教師にすがりつく。

罪と一緒に彼女は一切の身の廻りの虚栄もやめた。櫛も入れない髪を乱して、汚い部屋着のまま、部屋の中を他愛もなく何かしゃべり歩いていた。四日間というもの一度も寝室衣を脱いだこともなければ、靴下を穿いたこともない。部屋は汚く取散らかっていた。

(『雨・赤毛』、新潮文庫、94頁)

  このような彼女に対して、デイヴィドソンはなぜ最後に陥落してしまうのだろうか。しかも宣教師ともあろうものが、その犯した罪のために自殺してしまうのである。その点にも、私はやはり読者を驚かせたいがための作者の作為を感じてしまうのである。

 もちろん、伏線がまったくないわけではない。トムソンの回心に入れ込むあまりに夜も眠れないほど興奮しているデイヴィドソンの姿には常軌を逸したものがあり、狂気に接近していると言ってもいいだろう。そして言うまでもなくタイトルともなっている「雨」の存在がある。先の引用に続く箇所にこうある。

その間も雨は執拗な残忍さで降りつづいていた。もう空の水も種切れだろうという気がするのだが、それでも依然として気も狂い出しそうにナマコ板を鳴らしながら、無二無三に降り注ぐのだ。なにもかもみんなべっとり湿ってしまって、壁にも、床の上に置いた長靴にも黴が生えていた。眠られない晩を、終夜蚊の群が腹立たしい唸りを立てていた。

(同前、94-95頁)

  したがって、デイヴィドソンが最後に過ちを犯すのは、単に彼の精神や信仰心に弱さがあったからというのではない。それよりもむしろ「環境」が人心にもたらす影響の強さに、作者は重きを置いているのだと考えられるだろう。そう考えるならば、デイヴィドソンもまた一人の被害者である、という風に読むことも可能かもしれない。

 もちろん、この作品には一つの信念に凝り固まった人物の見せる独善性、不寛容さに対する諷刺と批判という面が明確にある。死体安置所から帰ってくると、トムソンが元のように着飾り、レコードをかけて騒いでいる。憤慨したマクフェイルが邪魔をしてレコードをはねのけると、女は怒って向き直る。ネタばれになるけれども、末尾を原文とともに引いておきたい。不平を述べてはみたが、この結末の鮮烈さはやはり傑出したものに違いない。

  'Say, doc, you can that stuff with me. What the hell are you doin' in my room?'
   'What do you mean?' he cried. 'What d'you mean?'
   She gathered herself together. No one could describe the scorn of her expression or the contemptuous hatred she put into her answer.
   'You men! You filthy, dirty pigs! You're all the same, all of you. Pigs! Pigs!'
  Dr Macphail gasped. He understood.

(Somerset Maugham, "Rain" (1920), in Collected Short Stories, Vintage Classics, Volume 1, 2000, p. 48.)

 

 「ねえ、先生、馬鹿なことおしでないよ。他人の部屋へ入ってなにするんだい?」

「その口はなんだ? その口はなんだ?」

 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に充ちた憎悪を浮べて答えたのである。

「男、男がなんだ。豚だ! 汚らわしい豚! みんな同じ穴の貉だよ、お前さんたちは、豚! 豚!」

 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。

(同前、103頁)

  (「こたえて」は「こらえて」の誤植だろうか?)

 ここに口を開いて、暗い深淵が覗いている。それが絶望的なまでに残酷に人と人とを隔てるのである。若い頃にこれを読んでショックを受けて、モームというのは嫌な作家だと思ったのが、以来これまで彼から遠ざかっていた理由であったかもしれない。

 今の私にもそういう思いが無いわけではない。しかし今はむしろ、その深淵を直視する作家の姿勢に共感を覚えると言っていいだろう。

 モーパッサンとよく似ている? そうかもしれない。でもやはり二人の間には相違もある。どこにその相違があり、その違いが何なのかを見定めることを目標に、これからモームを読んでいきたい。

 

 蛇足ながら、日本におけるモーム移入の嚆矢という歴史的価値を認めるにやぶさかでないとはいえ、中野好夫の訳文が古びているのは否めないと思う。新訳を望みたい。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメールの昔からのファンは、Laurent Boutonnat ロラン・ブトナあってのミレーヌだと考えるわけであるが、2010年のアルバム Bleu noir 『ブルー・ブラック』は初めてブトナ抜きで作られた。ちなみに『モンキー・ミー』で彼は戻ってきたが、最新作『星間』はまたしてもブトナ抜き。二人の間は決裂したとも噂される(らしく)、だとすればそれは悲しい。

 それはともかく、タイトル曲の"Bleu noir"

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La bataille est belle

Celle de l’amour

Disperse tout

La bataille est celle

De longs, longs jours

Mon amour

("Bleu noir")

 

戦いは美しい

愛の戦いが

すべてを追い払う

戦いは

長い、長い時間のかかるもの

愛する人

(「ブルー・ブラック」)

 

 

BD『神様降臨』/ジュリアン・ドレ「湖」

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 翻訳BDの中で、ニコラ・ド・クレシーに次いで名を挙げたいのは、マルク=アントワーヌ・マチューである。彼の作品でこれまでに翻訳されたものとしては、まず、これもルーヴル美術館BDプロジェクトの一環を成している

レヴォリュ美術館の地下 ある専門家の日記より』、大西愛子訳、小池寿子監修、小学館集英社プロダクション、2011年

の衒学的にして幻惑的なルーヴル迷宮彷徨があり、次に、わずか3秒間の出来事を連続コマ送りの画面で語り切るという、刺激的な実験作

『3秒』、原正人訳、河出書房新社、2012年

そして、ここに取り上げる

『神様降臨』、古永真一訳、河出書房新社、2013年

がある。いずれも白黒の画面であり、描線はきっちりと描かれているので見やすく、とりわけ黒色が印象的な画風となっている。

 さて『神様降臨』であるが、これは文字通りに現代世界に「神」を名乗る男が出現するという物語である。この神を自称する白髪と長い髭の男は、当然最初は疑いの目で見られるのだが、現代科学の最先端の難問を解くという「奇跡」を行ってみせることで、信憑性を高めてゆく。さて、現代社会において人々が神の降臨を信じた時、いったい何が起こるのか?

 人々はこの世のすべての元凶が彼にあることに憤って、神を裁判にかける――。それが、著者の出した傑作な回答なのである。それは荒唐無稽なようでもあり、なるほどと納得させられるようでもあり、冗談と真面目との絶妙なバランスこそがこの著者の真骨頂と言えるだろう。裁判の過程では神学的・哲学的な議論が展開され、そこにはこっそりと文人・思想家の引用がちりばめられているのだが、衒学趣味と滑稽な笑劇とが分かち難く結び合って、見事に独特の世界を作り出している。人間対神の論争は、いったいいかなる結末を迎えるのか?

 とことん人を煙に巻くような仕掛けやひねりが随所に効いていて、一読後の印象はまさしく狐につままれたようなという感じであるが、その感じが尾を引いて、もう一度頭から読み返したくなるに違いない。その点は『レヴォリュ』や『3秒』にも共通すると言えるだろう。マルク=アントワーヌ・マチュー、その独特の味わいは癖になる。

 ペダンチックで皮肉に富んだ彼の不思議に魅惑的な世界を、ぜひ一度堪能してもらいたいと思う。

 

 今年の1月に、Julien Doré ジュリアン・ドレの初の日本版CD『&~愛の絆~』が発売された。

 正直に言って私はとくに興味を持っていなかったし、一聴した時には「これで売れるのはなんかずるくないか」と偏見に満ちたことを思い、さらにボーナス・トラックの日本語版「ラ・ジャヴァネーズ」のPVを最初に見た時には仰天した。

youtu.be

 しかしながら、繰り返し聴いて馴染んでくると、なかなかどうしていい感じではあるまいか(我ながら単純ではある)、ジュリアン・ドレ。たいへん情感に富んだメロディーを書ける人だと思う。「湖」"Le Lac"は、ラマルチーヌとは関係ないか。

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T'aimer sur les bords du lac
Ton cœur sur mon corps qui respire
Pourvu que les hommes nous regardent
Amoureux de l'ombre et du pire
("Le Lac")
 
湖のほとりで きみを愛すること
呼吸する僕の身体の上には きみのハート
二人のことを 眺めている人がいる限り
暗がりで 最悪の事態で愛し合う恋人たち
(「湖」、大野修平訳)

 

BD 『氷河期』/ -M- 「オセアン」

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 フランスの漫画ことBD(ベーデーであって、ブルーレイディスクではない)が日本に積極的に紹介されるようになって、もう6、7年は経っているだろうか。これは、有能で熱意のある紹介者が何人かいれば、状況を変えることができるという見事な実例であり、その営為にぜひとも敬意を表したいと以前から思っていた。

 そういうわけで、まったくの素人ではあるけれど、素晴らしい作品について思うところをあれこれ述べてみたい。どこまで続くか分からないけれど。

 とにかく、フランスのBDは日本の漫画とは根本的に別物なので、日本の漫画が好きな人こそ、BDを手に取れば新鮮な発見に驚くのではないだろうか。大判でフルカラーの作品が多いので値段は張るが、日本に紹介されるような作品は、二度三度と繰り返し眺め、じっくりと読み返すだけの価値のあるものばかりが厳選されているから、無理をしてみる価値はあると思う。

 さて、私が一番最初に挙げたいのは、なんといっても、

ニコラ・ド・クレシー『氷河期』、大西愛子訳、小池寿子監修、小学館集英社プロダクション、2010年

である。これは、「ルーブル美術館BDプロジェクト」の一冊なので知る人も多いに違いない。ニコラ・ド・クレシーの翻訳されたものでは、

『天空のビバンドム』、原正人訳、飛鳥新社、2010年

が圧倒的に凄いのは確かだけれど、いかにも癖が強すぎて最初は取っつきにくい(と思われる)のに対し、『氷河期』の淡い水彩の絵柄はとても見やすく、話は相当ぶっ飛んでいるけれど、それでも首尾一貫しているのでずっと読みやすいだろう。

 話は今から1,000年ほど未来、地球は氷河期で氷に覆われている。環境破壊で死滅しかかった人類はかろうじで生き残っているが、過去の文明の記憶をほとんど持っていない、という設定である。そんな中、人およびしゃべる犬からなる探検隊が、雪で埋もれていたルーヴル美術館を発見する。

 人間たちはそこに残された絵画作品が、失われた歴史を語っているものに違いないと考え、絵だけから人類の過去をあれこれ想像するのであるが、なにしろ宗教画、裸体画や風景画などの古典作品ばかりであるから、そこから紡ぎ出される歴史=物語は奇想天外の馬鹿馬鹿しいもので、それを大真面目に語っているところがすごく可笑しいのである。

 一方で人間たちとはぐれたしゃべる犬ハルクは、建物の別のところで、古代の神々を象った彫像や置物などに出会う。これらの神々は魂を得たのかなんなのか、とにかく動いてしゃべるので、お互いに悪口を言ったり突っ込みを入れたりの、そのやりとりがこれまたたいへん面白い。

 そしてそういう物語に次々に出てくるルーヴル所蔵の作品は、どれも実際に存在するものが、それと分かるように丁寧に描かれていて、ちゃんと巻末には解説も付けられているので、眺めているとルーヴルについてもしっかり詳しくなれる(かもしれない)のである。

 そして最後に、この物語の破天荒な展開の見事さよ。実に馬鹿馬鹿しい結末ではあるけれども、その無茶苦茶さがいかにも清々しい。これほどオリジナリティーの高い物語をさらりと語ってしまえるニコラ・ド・クレシーという人は、まさしく天才の呼び名に値すると言うべきだろう。

 いや本当に、褒めるとこだらけのこれは見事な傑作であると、大きく太鼓判を押したいのである。ニコラ・ド・クレシー、知らないのは勿体ない。

 

 話は変わって、本日は -M- こと Matthieu Chédid マチュー・シェディッドを聴こう。見た目むさ苦しいおっさんであるが、歌わせたら実にうまいし、クールで、(たぶん)セクシーなので、いかにもフランス人男性に受けがいいに違いない、と思ってしまうのはただの偏見だろうか。

 2012年のアルバム Îl (って何だろう、il と île をかけてるのか)から、とくに好きな "Océan"「オセアン」。

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C’est en toi

C’est en moi

Oh c’est en nous

 

C’est en toi

C’est en moi

Océan

 ("Océan")

 

君の中に

僕の中に

おお僕たちの中に

 

君の中に

僕の中に

オセアン(海)

(「オセアン」)

  oh c'est en と océan は同音である、という「だけ」と言ってしまえば「だけ」の歌詞であるが、しかし見事に恰好いいですね。