えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ナボコフ、フロベールと5、6冊の本/クロ・ペルガグ「カラスたち」

『ナボコフの文学講義』上巻表紙

 「どうしたら良き読者になれるか」、というのは「作家にたいする親切さ」といっても同じだが――なにかそういったことが、これからいろいろな作家のことをいろいろと議論する講義の副題にふさわしいものだと思う。なぜなら、いくつかのヨーロッパの傑作小説を親切に、思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に、詳細に扱うのが、わたしの計画だからだ。いまから百年前、フロベールは彼の愛人への手紙のなかで、こんなふうのことを語っている。'Comme l'on serait savant si l'on connaissait bien seulement cinq à six livres' ――「わずか五冊か六冊かそこらの本をよく知っているだけで、ひとはどんな学者にもなれるものです。」

 本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。本の陽の当る細部が思いやり深く収集されたあとならば、月の光のような空想的な一般論をやっても、なにも不都合はない。だが、既成の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまるより先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる。

ウラジミール・ナボコフ「良き読者と良き作家」、『ナボコフの文学講義』、野島秀勝訳、河出文庫、上巻、2013年、53頁)

  「親切に、思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に」本を読むこと。なるほど、ナボコフはとても大事なことを言っている。

 それはそうと、当然の如く、フロベールの引用が気になって本を繰る手が(早々に)止まる。とはいえ、検索をかければ瞬時に原典に辿り着けるのだから、いや本当に今の世の中は、20年前には夢だった楽園そのものかとさえ思える。

 Tantôt j'ai fait un peu de grec et de latin, mais pas raide. Je vais reprendre, pour mes lectures du soir, les Morales de Plutarque. C'est une mine d'érudition et de pensées intarissable. Comme l'on serait savant, si l'on connaissait bien seulement cinq à six livres !

(Lettre de Flaubert à Louise Colet, jeudi, minuit [17 février 1853], dans Correspondance, Gallimard, coll. "Bibliothèque de la Pléiade", t. II, 1980, p. 247.)

 

 時には僕は少しばかりギリシャ語やラテン語をやりますが、猛烈にではありません。夜の読書には、プルタルコスの『モラリア』をもう一度手に取るつもりです。それは学識と思想との尽きることのない鉱脈です。ほんの五冊か六冊の書物をよく知っていれば、人はどれほど博識になれることでしょう!

(ルイーズ・コレ宛フロベール書簡、1853年2月17日)

http://flaubert.univ-rouen.fr/correspondance/conard/lettres/53b.html

  5冊か6冊の本を「よく知る」こと。いや本当にその通りだと思うのだけれど、しかしこの「よく」の一語が難しい。

 なにはともあれ、「親切に、思いやり深く」本を読む、というのは本当にいい言葉だと思う。

 

 ケベック出身の女性歌手 Klô Pelgag クロ・ペルガグは、2013年に最初のアルバム L'Alchimie des monstres『怪物たちの錬金術』を発表。批評家から高い評価を得た。たいへん才能豊かな人に違いないが、いやまあしかしなんて変てこりんなんでしょう。とりあえず「カラスたち」を挙げてみる。

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La lune est pleine ! La lune est pleine !
La lune est pleine ! La lune est pleine,
Elle est remplie de corbeaux
Et l'archipel ! Et l'archipel !
Et l'archipel, découpé par mes ciseaux

("Les Corbeaux")

 

月は満ちた! 月は満ちた!

月は満ちた! 月は満ちて、

カラスたちで一杯だ

そして列島! そして列島!

そして列島 私のハサミで切り取られて

(「カラスたち」)

  これはあるいは「夢」の光景でもあるのだろうか。

『フランス文学は役に立つ!』/ZAZ「シャンゼリゼ」

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 鹿島茂フランス文学は役に立つ!』、NHK出版、2016年を読む。

 「役に立つか立たないか」という功利主義的な発想は、えてして短絡的で底が浅いものである。したがって、「役に立つか」というような問いを安直に立てないような人になるためにこそ、文学は有用であって「役に立つ」のである、云々……。

 と、多くの場合に文学愛好家はもごもご歯切れ悪く呟いたりするものなのだが、そんな逡巡なにするものぞ、ずばり「フランス文学は役に立つ!」と言い切ってしまうところが、鹿島先生の面目躍如なところである。

 では、何故にフランス文学は役に立つと言えるのか。

 フランスは大革命の人権宣言に明らかなように、個こそが最も貴い価値であり、社会の目指すべき方向は個の解放にあると定めた最初の国だからです。ようするに、1人の人間が自分の人生を自分の好きなように使って「やりたいことをやる」と思ったとき(これを、普通、「自我の目覚め」と呼びます)、たとえ家族や社会のルールとぶつかろうと、基本的にはそれを貫くのは「良い」ことだと見なした最初の国がフランスであり、フランス文学はその見事な反映だということです。

(「まえがき」、『フランス文学は役に立つ!』、5頁)

  そこで、振り返って現代の日本社会を眺めると、フランス文学の扱っているテーマが、今の日本社会の直面する問題であることに気づかされる。

 なぜでしょう?

 それは「個」の解放の先進国であるフランスが大革命後、あるいは第一次大戦後に直面した問題が、第二次大戦後にアメリカから外圧を受けて遅ればせながら「個」の解放を始めた日本社会に、200年あるいは100年のタイムラグを伴って出現し、ようやくアクチュアルな課題となりつつあるからです。

(同前、6頁)

  なるほど、そう言われればそうかもしれない(という気になってくる)。文学作品を人生の教科書にするということは、別に古臭いことでもなんでもない。そういう読書こそが切実な体験となることも、とりわけ若い頃にはあるはずだ。よし、そのフランス文学とやらを読んでみよう(と思う読者のたくさんいることを祈りたい)。

 では、いったいどんな小説が取り上げられているのか、目次を眺めてみよう。

17世紀~18世紀文学

 1 ラファイエット夫人『クレ―ヴの奥方』

 2 アベ・プレヴォー『マノン・レスコー

 3 ヴォルテールカンディード あるいは最善説』

 4 コンスタン『アドルフ』

19世紀文学

 5 スタンダール『赤と黒』

 6 バルザック『ペール・ゴリオ(ゴリオ爺さん)』

 7 メリメ『カルメン

 8 ネルヴァル『シルヴィー』

 9 フロベール『ボヴァリー夫人』

 10 ユゴーレ・ミゼラブル

世紀末文学

 11 ヴァレス『子ども』

 12 ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

 13 ユイスマンス『さかしま』

 14 モーパッサン『ベラミ』

 15 ルナール『にんじん』

20世紀文学I

 16 プルースト失われた時を求めて

 17 コレット『シェリ』

 18 コクトー『恐るべき子どもたち』

20世紀文学II

 19 サルトル『嘔吐』

 20 カミュ『異邦人』

 21 サン=テグジュペリ『プティ・プランス(星の王子さま)』

 22 エーメ『壁抜け男』

 23 ヴィアン『日々の泡』

 24 ロブ=グリエ『消しゴム』

 以上の全24作品である。

 この中には、「最高の「恋愛分析」の報告書」(『クレーヴの奥方』)あり、「恋愛においてやってはいけない6か条」の指南(『アドルフ』)あり、「ゲームとしての恋愛」(『赤と黒』)あり、「かなうことのない自己実現」の夢(『ボヴァリー夫人』)あり、「同志婚」(『ボヌール・デ・ダム百貨店』)あり、「新しい女性たちの出現」(『ベラミ』)あり、はたまた「アラ・フィフ女性がいかに年下男と付き合うべきか」の答(『シェリ』)がある。

 一方で、鹿島茂の手にかかると、ネルヴァルも、ユイスマンスも、プルーストも、サルトルも、みんなそろって「元祖オタク」と断定されてしまうのだが、資本主義とヴァーチャル・リアリティーの世界に生きる現代人の宿命とでもいえようか。

 これらの作品の内に、現代日本社会を生き抜くための答がすぐに見つかるかどうかは分からない。それでも、少なくとも対象を相対化してくれる視点を手に入れることはできるだろう。

 ところで、ここに挙げられている作品のほとんどには、今も簡単に入手できる翻訳が2種類以上存在しているという事実は、改めて見直せばやはり凄いことに違いない。面白いこと保証済みの傑作のオンパレード、なにはともあれ読まれてほしい作品ばかり。

 ぜひ、鹿島先生の講座に入門されてみてはいかがだろうか。

 

 Zaz は正直なところ、もうひとつピンとこないのだけれども、それでも2014年のアルバム Paris 。ベタな「シャンゼリゼ」も、とっても洒落ている。

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Aux Champs-Elysées, aux Champs-Elysées

Au soleil, sous la pluie, à midi ou à minuit

Il y a tout ce que vous voulez

Aux Champs-Elysées

("Champs-Elysée")

 

シャンゼリゼには シャンゼリゼには

晴れでも雨でも、正午でも深夜でも

欲しいものは全部あるんだ

シャンゼリゼには

(「シャンゼリゼ」)

 

 

愛国主義という卵/ミレーヌ・ファルメール「City of Love」

 目下、モーパッサンと戦争について考え直す、という論文を執筆中。そこでふと思い出したのが、モーパッサンの名言として巷に流布しているらしい言葉である。

 「愛国主義という卵から戦争が孵化する」というのがそれなのだが、これまできちんと調べたことがなかった。そこで検索をかけてみると、出典は「ソステーヌおじ」だと教えられる。なるほど。では原文を読んでみよう。「自由思想家」を自任する語り手は一切の教義を認めないという、その文脈の中で出てくる。

  Mon oncle et moi nous différions sur presque tous les points. Il était patriote, moi je ne le suis pas, parce que, le patriotisme, c'est encore une religion. C'est l'œuf des guerres.

("Mon oncle Sosthène", dans Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, Gallimard, coll. "Bibliothèque de la Pléiade", 1974, t. I, p. 503.)

 

 おじと僕とはほとんどあらゆる点で違っていた。彼は愛国者だったが、ぼくはそうではない。それというのも、愛国心というものもまた一つの宗教だからだ。それは戦争の卵である。

(「ソステーヌおじ」)

 ちなみに、これまでに「ソステーヌおじ」を訳したことがあるのは桜井成夫だけかもしれないのだが、その訳文は次のようなものとなっている。

 おじとぼくとでは、ほとんどあらゆる点でちがっている。おじは愛国者だったが、ぼくはそうじゃない。それってのが、愛国心もまた、宗教だからね。ありゃ、戦争をひき起こすもとだよ。

(「ソステーヌおじ」、桜井成夫訳、『モーパッサン全集』、春陽堂、第2巻、1965年、329頁)

  桜井はそもそも「卵」の語さえ使ってはいないのである。ということは、件の「戦争が孵化する」の一文は、恐らくは英語からの流入で、どこかの時点で編集の手が加えられたものではないか、と推測される。しかし「孵化する」のイメージこそが肝であるとすれば、この「名句」はむしろその「編集者」のものであると言うべきかもしれない。

 「ソステーヌおじ」(1882年8月12日『ジル・ブラース』)は、自由思想家でフリーメーソン会員のおじさんに、イエズス会の坊さんをけしかけるという悪ふざけをして喜んでいたら、おじが本気で回心してしまい、ふしだらな甥は遺産の相続権を取り上げられてしまう、という落ちのつく笑い話である。フリーメーソンイエズス会のどちらもが縁遠いのが、日本ではあまり翻訳されてこなかった理由かもしれないが、これは健康な時のモーパッサンの上出来な作品の一つであろうし、モーパッサンもまた強固な反教権主義の時代であった第三共和政の申し子の一人である、ということが窺える一編でもある。

 それはそうと件の一文であるが、作中の語り手の言葉であるから、これをモーパッサンその人の考えと即断してしまうのははばかられる。ただプレイヤッド版の注釈で、フォレスチエ先生も、同様の思想は戦争小説や時評文の中に見いだされる、とわざわざ述べている。この年の5月、作家ポール・デルレードをはじめとした幾人かがLigue des Patriotes「愛国者同盟」を結成、対独報復を声高に主張していた時のことである、ということも覚えておいてよいだろう。

 なんにせよ、あらゆるドグマは人を拘束する、というのがモーパッサンの信条であり(それもまたドグマかもしれないが)、彼は常に精神の自由を優先させようとした。そして、自由でありつづけるというのはまことに難しいことに違いない。

 

 本日はミレーヌ・ファルメールの2015年のアルバム Interstellaires 『星間』である。嬉しがって限定版のCDを注文したら、大きな写真集(にCDがくっついてる)が届き、さすがに自分は何をしているのだろうと恥ずかしくなった、と、そんなことをこんなところで告白していいのか。

 "City of Love" のクリップの主人公はもちろんミレーヌその人。特殊メイクには6時間半かかったという。

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Les mots au bout des lèvres

Un chemin vers la vie

Si je m’abandonne

Je bâtirai

The city of love...

Oh Oh

Si je sais que je l’ai

Et le monde et l’envie

Si là je t’attends

Je bâtirai

The city of love

The city of love

("City of Love")

 

唇から洩れる言葉

人生への道

もし私が身をゆだねるなら

私は築く

The City of love

Oh Oh

もし私がそれを手にすると分かれば

世界と欲望

もしここであなたを待つなら

私は築く

The City of love

The City of love

("City of Love")

  je l'ai の l' は何を指しているのだろう。City of love だろうか。まあそれはともかく、たいへん音の美しい歌詞だと思う。

純粋自我みたいな何か/ヴァネッサ・パラディ「あなたを見るとすぐに」

 1月21日(土)関西マラルメ研究会@京都大学人文科学研究所、の3階の談話室には「以文会友」の額(が外して立てかけてあった)。出典は『論語』「顔淵 第十二」の24である、と。

曾氏曰く、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く。

 

曾先生の教え。教養人は、学芸を通じて友人と会合する。その友誼によって、おたがいに人格を高めることを助け合う。

(『論語加地伸行全注釈、講談社学術文庫、2004年、290頁)

 まことにかくありたいものであります。

 さて読書会では、前回の続きから「彼は部屋を出て、そして階段に消える」(プレイヤッド1巻485-487頁)を読み終えた(一応)。

 側壁があり、前後は闇(あるいは過去と未来?)の廊下のような場所。どちらの側へ向かうべきなのか? 完成された自己意識となった「私」は時間と空間から解き放たれ、もはや偶然を恐れる必要はなくなるのか? しかししつこく聞こえる心臓の音。下半身、上半身(心臓がある場所)を切り離し、純粋な自我、あるいは思惟作用そのものみたいな何かになることによって「私」は「私」の内に融解せんとするその時、心臓の音が再び回帰し、「私」は生へと戻って来ることになる……。

 と、自分で書いていても分かっているとは言えないような状況ではある。恐らくは、「私」の一人称の語りによりながら、その「私」の自己意識を完全に「非人称化」、あるいは「非人物化」させようとする試み(とその挫折)の、テクスト的実践(あるいは再構築)……。ああ、頭が痺れる。

 

 なので気晴らしにヴァネッサ・パラディ。2007 年のアルバム Divinidylle(日本版のタイトルは『神々しき純愛』)。"Dès que j'te vois"「あなたを見るとすぐに」は、MことMatthieu Chédid が作詞作曲。言葉遊びの固まりみたいな歌詞。

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Est-ce que si on l'avait fait,

On se ferait l'effet
Que l'on se fait chaque fois
Si on l'avait fait
On se ferait l'effet que l'on se fait
(""Dès que j'te vois)
 
もうしそうしていたら
毎回互いに与えあう影響を
お互いに与えあうのかな
もしそうしていたら
お互いに影響を与えあうのに
(「あなたを見るとすぐに」)

 うーむ。これでいいのかな、本当に。

BD版『セルジュ・ゲンズブール』/「唇によだれ」

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 フランソワ・ダンベルトン原作・アレクシ・シャベール漫画、『セルジュ・ゲンズブール バンド・デシネで読むその人生と音楽と女たち』、鈴木孝弥訳、DU BOOKS、2016年を読む。

  ゲンズブールの伝記としては先にジョアン・スファール監督の Gainsbourg (Vie héroïque)ゲンズブールと女たち』(2010)があって、漫画で取り上げられているエピソードの多くは映画とも共通している。はじめは画家を志すがやがてシャンソンに乗り出すも、左岸派シャンソンが売れず、イエイエで一山当てたところから、破滅的な道のりが本格的に始まってゆく。ブリジッド・バルドー、ジェーン・バーキンとの交際、ロック、レゲエ、(売れない)映画等々と続き、バーキンと別れた頃からどんどんと汚れてぼろぼろになり、最後は肝硬変を患い、心臓発作で62歳で亡くなるまで、目まぐるしくもスキャンダラスでありつづけた、実に見事な生涯である。

 漫画はそうした波乱万丈な生涯を丁寧に辿ってゆくが、随所に漫画ならではの表現を織り交ぜながら、品よくスタイリッシュに纏めあげている。ゲンズブールをはじめとした人物が皆、本物と実によく似ているのであるが、だんだん薄汚れていくところもしっかり表現されているところが素晴らしい(褒めるところなのか)。なんでも限定1,500部ならしいけれど(普段1,500部も刷ったら凄いという世界に棲息している者にとっては驚くばかりだが)、没後25周年を経た現在、ぜひとも多くの若い人にも、この希代の傑物を発見してほしいと思う。

 セルジュ・ゲンズブールのような人物はいかにもフランスにしか登場しえないだろうと思われる大きな理由が、私の考えでは少なくとも2点ある。一つはこの国に深く根づいた個人主義の価値観であり、もう一つはプロテスタント的な倫理感では許容されないような放縦を許してしまう、なんというのか一種の社会道徳の「緩さ」である。いや、結局のところこれは同じ一つのことなのかもしれない。とはいえさしものフランスにおいても、このような無茶苦茶な人は今後はもう現れることはないだろうか。

 ゲンズブールの歌は、ナチ・ロックの頃より後はなんだか難しくて、私には正直よく分からない。しかしイエイエに行く前の60年代前半のシャンソンの、実によく出来た歌詞には深く感心させられる。試しに一曲挙げてみよう。1960年、映画のおかげで最初のヒットになったという「唇によだれ」。スイスの放送局RTSのアルシーヴより(もうこの頃から煙草を吸っている)。

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Laisse-toi au gré du courant

Porter dans le lit du torrent

Et dans le mien

Si tu veux bien

Quittons la rive

Partons à la dérive

("L'eau à la bouche")

 

流れに身を任せて

急流に運ばれればいい

そして僕のベッドで

お望みなら

岸辺を離れよう

成行き任せに漂流しよう

(「唇によだれ」)

 ごく何気ない曲だけれども、lit の語に「川床」と「寝床」の両方の意味があることを利用した言葉遊びによって、詩的かつ官能的なイメージが鮮やかに浮かび上がる(日本語にはとても表せない)。そもそもここで水のイメージが出てくるのは「よだれ」として使われるeau 「水」 からの連想としても自然であるし、「唇」の語が曲の最後で「僕」から「君」へ移って締められるところも実に綺麗である。こういうのがつまり「文学的」というものであろうが、いやもうまことに言葉の達人である。

 というわけで柄にもなくゲンズブールについて語ってしまった。ご容赦願います。

映画『マドモワゼル・フィフィ』/クリスチーヌ&ザ・クイーンズ「サン・クロード」

映画『マドモワゼル・フィフィ』


 本日、映画『マドモワゼル・フィフィ』を(フランス版のDVDで)鑑賞。1944年、ロバート・ワイズ監督。シモーヌ・シモン主演。

 「脂肪の塊」と「マドモワゼル・フィフィ」をくっつけて一本の作品にするという発想は、クリスチャン=ジャックの『脂肪の塊』(1945)と同じものであって、当然のごとく、どちらもナチス・ドイツに対するレジスタンを称える意図を明確に持った作品である。はて、これは偶然の一致ということなのか? なんにしてもフランス版はわりと単純に両作品をくっつけただけなのに対して、このハリウッド版の脚本ははるかに手が込んでいて、一体感があってよく出来ている。

 大きな改変の1は、主人公エリザベート・ルーセが娼婦ではなく洗濯女であり、彼女はトートとディエップの間にある Cleresville クレールヴィルなる町に帰るために馬車に乗り合わせることになった、という設定。

 第2に、このクレールヴィルの司祭が抵抗の印として教会の鐘を鳴らさないでいるのだが(それ自体は原作「マドモワゼル・フィフィ」と同じ)、彼の後任となる若い司祭が(原作「脂肪の塊」の二人の修道女の代わりに)同じく馬車に乗っている。

 第3に、トートの宿屋にいるプロシア将校が、〈マドモワゼル・フィフィ〉その人となっている。

 第4に、ここが興味深いところであるが、〈マドモワゼル・フィフィ〉は洗濯女エリザベート(彼女は愛国心が強く、決してドイツ人の言うことを聞かないことで知られている)に、文字通りに「一緒に夕食を取ること」を強要する(そして彼女はそれを拒絶する)のである。これは当時のハリウッドの倫理コード上必然的な変更点なのだろうが、いかにも苦肉の策の感は否めない。しかしその代わりに、プロシア将校があくまで彼女を「精神的に屈服させる」ことに固執するという状況は、なんとなく原作よりも高尚な感じを抱かせる変更であって、それはそれとして面白くもある。

 第5に、コルニュデはいったんは他の乗客たちの陰謀に加担し、エリザベートの説得に一役買うのであるが、後にそれを反省して、ここからだんだんといい役に変わってゆく。このあたりの工夫はうまいと思う。

 第6に、エリザベートはクレールヴィルでおばの洗濯場での仕事に戻るのだが、プロシア将校たちが宴会を企て、(娼婦ならぬ)洗濯女たちを占拠している城館へと連れてくることになる。

 第7に、コルニュデは新しい神父と一緒に教会の鐘を守ることを決意し、見回りにやってきたプロシア兵を銃で狙撃し、逃亡する。まさしくレジスタンになるわけである。

 第8に、〈マドモワゼル・フィフィ〉を刺殺して逃亡したエリザベートは、コルニュデと合流し、ともに司祭によって教会にかくまわれる。コルニュデはレジスタンに加わることを決意し、エリザベートの隠れる鐘楼で、司祭が〈マドモワゼル・フィフィ〉の弔鐘を鳴らすところで幕となる。

 以上がおおよその原作との変更点であり、二作品の融合という点ではわりとよく出来ているように思われた。主人公エリザベートは周囲の人物のためにやむなくドイツ将校に屈するも、最後には自尊心を守って身をもって抵抗し、その心意気にうたれてコルニュデも回心して一人の闘士となるのであるから、実に一貫したレジスタンス称揚の物語になっていると言えるだろう。もちろん自己の経済的利益しか考慮しないブルジョア市民(それはつまり時代状況において考えればヴィシー政権に加担するコラボということになるだろう)への諷刺も含まれているので、当時のフランスの観客にどう受け止められたかは想像しにくいところもある。

 ごく個人的には、原作「マドモワゼル・フィフィ」はやはり素直に対独抵抗(を称える)物語として読まれうるし、現にそう読まれてきたという事実を粛々と受け止めるしかない。いや、そんなに単純な話ではないだろうと、心の底の思いはなかなか消し去れないけれども。

 

  おおよそ一周して、クリスチーヌ&ザ・クイーンズに戻ってくる。赤の「サン・クロード」。美しい。

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Here’s my station

But if you say just one word I’ll stay with you

("Saint Claude")

 

「持参金」、あるいは結婚詐欺/クリストフ・マエ「人形のような娘」

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』表紙


 「持参金」は1884年9月に『ジル・ブラース』に掲載。シモン・ルブリュマン氏はジャンヌ・コルディエ嬢と結婚することになる。ルブリュマン氏は公証人の事務所を譲りうけたばかりで支払いが必要だが、新婦には30万フランの持参金があった。

 新婚夫婦は二人きりで仲睦まじく一週間を過ごすが、そこで夫がパリへの旅行を持ちかける。そして、事務所の支払いを済ませるために、持参金の全額を用意するように妻に求めるのだった……。

 結婚詐欺というものは古今東西を問わずに存在するのだろうし、詐欺師は男ばかりとも限るまいけれど、19世紀のフランスにあっては、作品の表題ともなっている持参金の慣習があった。つまり、貴族・ブルジョアの娘が家柄の良い相手と結婚するためには多額の持参金が必要だった(夫婦財産契約こそは、バルザックが大好きなテーマの一つであった)。そうであれば結婚詐欺をたくらむのはやはり男の方が多かったのだろうか。まんまと30万フランをせしめた男は「いまごろはベルギーあたりへ高とびしているよ」(『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、300頁)と述べられているが、当時の社会にあっては姿をくらますのも比較的容易だったかもしれない。いずれにせよ本作は、文字通り新聞の三面記事の題材になりそうな事件を、物語風に語ってみせた一編であり、そうした主題と構成自体、これもいかにも当時の新聞小説らしい要素を備えたものとなっている。

 何も見逃すことのない、プレイヤッド版編者のルイ・フォレスチエ先生は、パリの町をさ迷うもう一人のジャンヌの存在を指摘することを忘れたりはしない。つまり『女の一生』のヒロインのジャンヌは、息子ポールの行方を尋ねてパリの町を彷徨したのだった。地方に住む者にとって、19世紀の首都たるパリという都会の喧噪は、さぞ驚きをもって体験されたことであろう。そして、行く当ても知れぬ乗合馬車に一人残された新妻の孤独に焦点を当てる本作にも、当時の社会にあって弱い立場にあった女性への、作者の同情的な視線を認めることができるだろう。

 

 以上で光文社古典新訳文庫の『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』(太田浩一訳)の収録作を一通り読み終えた。その結果については我ながら心もとなく、万年一日で同じことばかりを繰り返しているような気がしないでもない。

 それはそうと改めて収録作を見直すと、ノルマンディーの農民ものがまったく取られていない点がやや惜しまれるだろうか(新潮との重複を避ければ仕方ないかもしれないが)。中編では「ミス・ハリエット」を入れなかったのは個人的にはすごく残念で、恐らくは「遺産」や「イヴェット」も割愛となったようである。ま、この種の不平は言うだけ野暮に違いない。してみると、2巻の中核を占めるのは、「パラン氏」、「ロックの娘」、あるいは「オルラ」(決定稿)あたりか? と、ついついこれも余計な詮索をしてみたりしつつ、なんにせよ無事の刊行を期待したい。

 

 クリストフ・マエは、実を言えば2013年のアルバム Je veux du bonheur の方が良かったと、個人的には思う。"La Poupée" は、「お人形のようにかわいい子」の意味だろうか。

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Elle était si belle la poupée

Elle que les anges avaient oubliée
Et si on l'avait un peu regardée

Peut-être que

L'hiver ne l'aurait pas brisée

("La Poupée")

 

彼女はとても美しかった 人形のような娘

天使たちが置き去りにした彼女

彼女に目が留まったのは

きっと

冬にも壊されなかったからだろう

(「人形のような娘」)