えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「恐怖」(1884)翻訳/Zaz「何が起きようと我が道を行く」

『フィガロ』1884年7月25日

 久方ぶりにモーパッサンの翻訳をする。

モーパッサン 「恐怖」(1884)

 昨年の秋にモーパッサン幻想小説について発表する機会があり、その余波で「さらば、神秘よ」を訳し、今回は「恐怖」(1884)を訳した。まるで15年ぶりくらいにようやく宿題を提出したような気分だ。

 大学生の頃に初めてこのテクストを読んだ時には、よく意味が分からなかった。「小説」の中にいきなりトゥルゲーネフの回想が出てくる。そうするとこの語り手「私」はモーパッサン自身ということになるはずだが、しかし列車の中で出会った老人の語る内容というのも作者自身の思想のように思われる。だとするとノンフィクションとも言い難い。中途半端な生煮えのようなこれは一体何なんだろうかと、いぶかったものだった。

 後に分かったことは、そもそもこの一文は新聞紙面を飾るクロニック(時評文)として書かれたものである、という事実だった。そしてこの同じクロニックという枠組みの中で、ある時は社会批評、ある時は純然たるフィクションが書かれるが、それが同じ枠組みの中にある以上、恐らく作者自身はフィクションとノンフィクションを厳密に区別してなどいなかったのである。この「恐怖」というテクストは、そのような文章の性質の曖昧さを特別にはっきりと示している事例だったのだ。

 すべては書き手モーパッサン(あるいは筆名モーフリニューズ)の語る「お話」である(そうでしかない)。一切は書き手の主観による「語り」であるという前提の上では、事実か想像かという区別などは二次的なものでしかない。それが、19世紀後半の新聞という媒体に書くという経験を通して、モーパッサンが理解した「真実」だった。すべては言葉でしかない。そこにおいて事実か否かを決定することなど誰にもできないし、そんなことは(実は)誰も必要としていない。判断基準はただ、本当らしく見えるか、信じられるか否かであり、それを決定するのは、ひとえに語り手の技術である。

 これは、事実報道という観点からすれば、当時の新聞の言説に対してモーパッサンが懐疑的・批判的であったということを意味するだろう。そこでは何も「本当」であることは担保されていないのだから。だが作家としての彼にとってみれば、そのような新聞という言説の場は、自分の力量さえあれば、自分の言葉を、自分の物語を、その「実在」を、読者に「信じさせる」ことが可能になるという、ある意味では特権的な場であった。

 今の私にとってモーパッサンという作家の言説が特別だと感じる理由の多くは、彼が当時の新聞という媒体の特殊性を洞察した上で執筆していた、というその事実(と私は考えるのだけれど)、そしてその結果として書かれたテクストの持つ「力」の内にあると言ってよい。

 そこから先にも思索は続くのであるが、とりあえず今はここまでにとどめよう。以上のような次第で、「恐怖」(1884)は、恐怖・怪奇に関わるその思想的内容とは別の次元で、私にとってとても重要な意義を持つテクストの一つであり、それを訳せてよかったなあ、と、まあ、そういう次第であります。

 お読みくださる人がいらっしゃいますようにと祈りつつ。

 

 Zaz ザーズ、2018年の新作はEffet miroir、日本版は『エフェ・ミロワール ~心、重ねて』。2曲目の"Qué vendrá"「何が起きようと我が道を行く」。ルフランのみスペイン語

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Qué vendrá qué vendrá

Yo escribo mi camino

Si me pierdo es que ya me he encontrado

Y sé que debo continuar

("Effet miroir")

 

そしてどうなるの?

自分が歩む道を思い描く

見失っても大丈夫

ただひたすら歩けばいい

(「何が起きようと我が道を行く」、古田由紀子訳)

BD『見えない違い』/ポム「あなたはいない」

『見えない違い 私はアスペルガー』

 ジュリー・ダシェ原作、マドモワゼル・カロリーヌ作画『見えない違い 私はアスペルガー』、原正人翻訳、花伝社、2018年

 原作者の経験に基づく自伝的漫画。主人公のマルグリットは27歳、会社員として働き、恋人もいるが、様々な面で生きづらさを感じている。彼女はその理由を探し、やがて自分がアスペルガー症候群であることを認識するに至る。そのことによって、「"当たり前じゃない"のが当たり前」(123頁)と捉えられるようになることが、マルグリットをそれまでの苦しみからの解放へ導くのである。「"おかしい"んじゃなくて"違う"のよ」(128頁)と言えるようになることで、彼女はあるがままの自己を肯定できるようになる。その後、彼女は恋人と別れはするが、自分のことを理解してくれる人たちと共に、新しい人生を築いてゆく。

 本書は、原作者の実体験を基にしながらも、アスペルガー当事者たちが社会で経験する様々な事柄や、周囲の誤解と偏見を、マルグリットという人物像を一つの典型として描くことによって、「見えない違い」のありようを具体的かつ説得的に描いてみせてくれている。もちろん実際にはケース・バイ・ケースで個人差もあるのだろうけれど、アスペルガー症候群についての一般的理解を広めるという目的に適っており、とても有意義な作品であると感じる。とくにフランスでは理解が遅れている(精神分析が普及しているためというのに驚かされる。何事にも功罪はあるということか)といわれるアスペルガー症候群についての知識を広める上で、漫画という親しみやすい表現が選ばれているのは、とても効果的であるように思える。

 診断がおりることによって、マルグリットは自分自身と「仲直り」することができる。もちろん、その受け止め方にしても個人差はあり、作中には自分が「死刑囚になった気がした」(125頁)と打ち明ける男性も描かれている。だが、それでもやはり、自分が他者とは「違う」ということを事実として認識することが、自己を肯定するための重要な契機となるのは確かではないかと思う。その意味で、本書は「言葉」の持つ重要さについても教えてくれるものであるだろう。

 

 Pomme ポムの "Sans toi"「あなたはいない」。発表は2016年。

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Et la nuit tombée, pour ne plus jamais pleurer

Je chasse deux trois paires de bras

Pour m'y réfugier, seulement le temps d'un baiser

Pour ne plus jamais me voir

Sans toi, sans toi , sans toi

("Sans toi")

 

日が暮れると、もう二度と泣かないために

私は二、三組の両腕を追い求める

ただキスの間だけでも、そこに逃げ込むために

もう決して自分の姿を見ないために

あなたはいない、あなたはいない、あなたはいない

(「あなたはいない」)

「対訳で楽しむモーパッサンの短編」第6回/ポム「ポーリーヌ」

『ふらんす』2019年3月号表紙

 『ふらんす』3月号に、「対訳で楽しむモーパッサンの短編(最終回) 「クロシェット」②」が無事に掲載されました。クロシェットとあだ名される老婆は、かつては美しい少女オルタンスでした。彼女の身に起こった事件とは……。コラムは「映画『女の一生』」です。お手に取ってご覧いただけましたら幸甚です。

 半年間、モーパッサンの短編の読みどころをどう言葉にするかを考える、貴重な機会を頂きました。本文に書きましたが、モーパッサンの短編小説はじっくり味読する価値があるということを、これからも多くの人に伝えていければと思っています。

 

 引き続き、Pomme ポムさんの曲。"Pauline"「ポーリーヌ」は、美人の女ともだちポーリーヌに、自分の好きな男の子を取らないでと願う歌。笑顔がとっても素敵ですが、彼女はいったい何を食べているのでしょうか。花?

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Pauline, rose pleine d’épines

Tu le blesseras un jour alors laisse-le moi

Pauline, range tes canines

Laisse le bonheur aux autres au moins pour cette fois

("Pauline")

 

ポーリーヌ、とげ一杯のバラの花

あなたはいつか彼を傷つけるから、私にちょうだいね

ポーリーヌ、犬歯をしまってよ

せめて今度だけは他人を幸せにしてね

(「ポーリーヌ」)

『Marble Ramble』/ポム「火に焼かれて」

『Marble Ramble』

 モーパッサンの短編を漫画化した作品というのは、いろいろあってもよさそうだと思うのだけれど、これまでお目にかかる機会がなかった(ご存知の方がいらしたら、教えて頂けると嬉しいです)。このたび初めて目にすることができたのが、Iさんに教えてもらった

 長崎訓子『Marble Ramble(マーブル・ランブル) 名作文学漫画集』、パイ インターナショナル、2015年

である。この作品集、選ばれている作品がどれも異色で、作者は相当の読書家かと想像される。収録作は以下のとおり。

佐藤春夫「蝗の大旅行」

夏目漱石「変な音」

梅崎春生「猫の話」

向田邦子「鮒」

蒲松齢「桃どろぼう」

曹雪芹「夢の中の宝玉さん」

海野十三「空気男」

モーパッサン「墓」

モーパッサン「髪」

ペロー「青ひげ」

横光利一「頭ならびに腹」

 

 うむ、見事に変な作品ばっかりだ。のほほんとした佐藤春夫みたいなのもあるが、漱石といい梅崎春生といい、なんとも居心地の悪い読後感の残る作品であることよ。かつての愛人がこっそり家へやって来て、飼っていたフナを置いて行くという「鮒」は、いかにも向田邦子らしいどんよりした感じで一際気持ち悪い(もちろん誉め言葉ですよ)。中国ものは人を食ったような怪異譚で、海野十三はなんだかとぼけた味わいだ。そしてモーパッサンの2作、および「青ひげ」がフランスもので、これまたなんだか訳の分からない横光利一で締められている。

 モーパッサンの2作品は、広い意味で「幻想小説」の枠に入れられる作品。「墓」は、最愛の恋人を失くした男が、彼女の墓を暴いて今一度だけその顔を見ようとして捕まり、裁判の場で真実を告白する話。「髪」は古物のコレクターが、古い家具の中に見つけた女性の髪の毛を熱愛し、やがてその髪の内に女性の幻影を見るに至る話(男は捕えられ、今は病院に収容されている)。どちらの作品にも死と喪失、過ぎ去る時間の哀惜といったテーマが共通していると言えるだろう。

 両作品とも、大げさにならずに淡々と語られているところが好ましい。「墓」では、各ページの下部に裁判を傍聴している人たちの顔が並び、初めは憤っていた人たちが、次第に被告の話に胸打たれていく変化が描かれている。モーパッサンのテクストが読者の理解と共感を求めて遂行的に語られているということを、明確に視覚化してみせるよい演出と言えるだろう。

 一方の「髪」だが、髪(男性名詞 les cheveux ではなく女性名詞 la chevelure であることがとても重要)の内に女性の幻を見るに至るという展開は、文字だけしかない文学だからこそ、読者に説得的に訴えかけることができるのではないか、という気もするのだが、果たしてどうだろうか。漫画では髪の束を手に町を歩く男の姿が客体として捉えられることになり、彼の「異常さ」がはっきりと視覚化されるという効果はある一方、彼に対する共感的な感情は、いささか抱きにくくなっているかもしれない。もっとも、こういうのは原作を知っている人間の贔屓目な見方の可能性はあり、原作を知らない人が読めば印象は大きく違うだろうか。

 落ち着いたトーンの、穏やかな語り口の中にしみじみ「変さ」がにじみ出ている本作品集、その味わいはゆっくりじわじわと効いてくるようである。

 

 Pomme ポムさんのアルバム À peu près 『だいたい』(2017) より、"On brûlera" 。どう訳していいのか分からないのでとりあえず「火に焼かれて」としておく。冒頭は "On brûlera toutes les deux / En enfer mon ange" 「私の天使よ、地獄で/二人とも焼かれるでしょう」。この「二人」はともに女性ということか。

 それはともかくこのクリップをご覧いただきたい。ああ、ぞわぞわする。

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Que la mer nous mange le corps, ah

Que le sel nous lave le cœur, ah

Je t’aimerai encore (x 4) 

("On brûlera")

 

海が私たちの体を食べてしまいますように、ああ

塩が私たちの心を洗ってくれますように、ああ

私はまだあなたを愛するでしょう(x 4)

(「火に焼かれて」)

 なぜエスカルゴかといえば、不快な存在で、多くの人に嫌われているから、それはある種の人々に、ある種の国に、ある種の文化や宗教に受け入れられなかったり、断固として拒絶されたりする愛の象徴だから、とビデオの下に説明として書かれている。うむうむ。

 ああ、このカタツムリ、本物なんでしょうか。違うのかな?

『未来のイヴ』/ポム「天国から」

光文社古典新訳文庫『未来のイヴ』表紙

 いやはや、こんなに長かったっけ。

 ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』、高野優訳、光文社古典新訳文庫、2018年

は、なんと800頁を超えており、本文だけでも768頁まである。もっとも比較的短い章に区切られているし、この新訳は平易な言葉遣いで書かれているので、決して読みにくいということはないのだけれど、しかしまあ通読にはそれなりに骨が折れる。なにしろ、あちこちいろいろと訳が分からないのだ。

 本書は全六巻から成っている。第一巻「エジソン氏」は、メンロパークの魔術師たるエジソンの夢想に割かれている。彼は古代人が蓄音機をもっと早くに発明していたら、どれほど重要な歴史的出来事が録音されたことだろうかと考える。それ自体は興味深くもある発想ながら、旧約聖書やら古代ギリシア・ローマの神話やらがどんどん出てきて、どこまで真面目なのかよく分からない話が延々と続く。

 ようやく11章で若き友人のエウォルド卿が登場し、自殺を決意したと告げる。彼は絶世の美女アリシア・クラリーに出会い、恋人になるが、彼女が外見にそぐわない空っぽな中身しかないことに絶望したという。

 第二巻「契約」において、エジソンは理想の肉体から魂だけを引き剥がすことを請け負う。そこにアンドロイドのハダリーが姿を現す。エジソンハダリーにミス・アリシアそっくりの外観をまとわせるといい、エウォルド卿と契約を結ぶ。二人はエレベーターで地下の秘密の部屋に赴く。

 第三巻「地下の楽園(エデン)」は短く、人口楽園の様子が描写され、そこにおいて二人は再びハダリーと出会う。

 第四巻「秘密」においてエジソンは、自分がハダリー作製に乗り出した経緯を語る。友人だった堅実な男アンダーソンは、踊り子のイヴリン・ハバルとの恋によって身を滅ぼした。当の彼女はといえば全身を化粧や装飾で飾り立てたうわべだけの存在であり、その実体は〈無〉でしかない。そのような虚飾に満ちた女たちに換えるに、自分は電気仕掛けのアンドロイドを提供しよう、そう考えるに至ったという。ここに至って19世紀的なミゾジニー(女性嫌悪)の言説がこれでもかとぶちまけられているので、現代の読者の多くが意気を削がれることだろう。

 第五巻「ハダリー」は、人造人間がいかに出来ているかを事細かに語る。そもそもエジソンがエウォルド卿に逐一ハダリーの中身を説明しなければいけない理由も存在しないが、作者がなぜここまで執拗に機械仕掛けの説明に拘るのかもよく分からない。ヴィリエは本気で自動人形が作りたかったのか? なんにしろ第3章「歩行」、第5章「平衡」のあたりは読むのがかなり辛い。訳者の苦労が偲ばれる。ともあれ説明終わって、エジソンとエウォルド卿は地上に戻る。

 第六巻「幻あれ!」において、アリシアが登場。三人は夜食を取り、エジソンは彼女の彫像を作るといって体を測らせる約束を取り付ける……。こうして第2章の末尾、630頁に至ってようやく長い一日が終わる。この間、行為はごく少なく、もっぱら妄想、議論、説明、描写などが頁を埋めているのであるから、この『未来のイヴ』、19世紀の小説としては相当に破格な部類に入るだろう。独身貴族の妄想全開という意味で、ユイスマンスの『さかしま』と一脈通じるものがあると言えるかもしれない。

 さて、第六巻第3章以降、エジソンハダリーをミス・アリシアそっくりに仕上げる作業に没頭する。そして遂に完成したという知らせを受けたエウォルド卿がやってくるが、先に本物のアリシアと話をつけておくべく、彼女と一緒に庭を歩くと……。

 というところでおよそ650頁。正直に言ってここまで来るのはなかなか骨が折れるし、明らかにいささか冗長に過ぎるし、色々とあちこち古びてしまっている感も否めないのである。いや本当に、このまま読み続けるべきなんだろうかと迷ったことも一度ならずであった。

 だが、しかし。なにごとも辛抱はしてみるものである。本物のミス・アリシアだと思っていた女性が、実はすでに完成したハダリーだったと知ってエウォルド卿が愕然とするところから先は、話がそれまでとは打って変わった方向に展開し、幕切れまで間然とするところがないと言っていいのではないだろうか。

 詳細を割愛してごく簡単に結末を述べれば(ネタバレご容赦)、最終的にこれは、エジソンが造り出した「理想の身体」に、ミス・エニー・ソワナなる〈無限の世界〉から到来した「理想の精神」が結合することによって(ニヒルエジソンの意図を越えたところで)「理想の恋人」という夢が実現してしまう話なのである。これには素直に驚いた。しかし永遠の理想とは実現すべからざるものであるからして、実現したと思われたのも束の間、エウォルド卿がハダリーを故郷に連れ帰ることはできず、彼女は船の火事によって永遠に失われてしまうことになる。

 ソワナの台詞の内には「理想」とはそれを信じる者にとってのみ現実となりうる、といういかにもヴィリエ的な思想が如実に表れており、その意味においてハダリー=ソワナの存在を受け入れることを決意するエウォルド卿の内には、作者の夢が具現化しているのであり、だからこそこの結末部分ははかなくも美しいものとなっているのである。

 だが、ここで改めて「だが、しかし」である。だとしたらそれまでの650頁、人間の中身なんてしょせん空っぽなのだから、美しい虚飾の見せかけさえあれば十分だというエジソンの思想(本書の内で最も現代的と言えるのはこの部分だろう。実にポストモダン的だ)と、あのハダリー製作のもろもろの理屈と詳細の一切はいったい何だったのだろうか、という根源的な疑問を抱かざるをえないのである。反対に、もしもそちらこそが大事であったのだとすれば、末尾の展開はいかにも取って付けたものであるという感をぬぐえまい(なにしろ催眠術と幽体離脱である、見方によっては胡散臭いことこの上ない)。ハダリー消失に必然的根拠がないという点もプロットの弱さとして指摘されるだろう。結局どちらであったにしても、前の650頁と後ろの100頁との間に断絶(めいてみえるもの)が存在するのは否定しがたいように思われる。

 まあしかし、ともあれこの800頁、最後まで読めば後悔することはないと請け負いたい。19世紀末、ベル・エポックのフランス、〈電気〉という奇跡が人々を幻惑した時代に「科学的想像力」が生み出した妖しいあだ花、『未来のイヴ』は、AIの時代の到来を待ち受ける21世紀初頭の我々にとって、不思議なほど身近に感じられるに違いない。

 なお、海老根龍介先生による末尾の解説が要を得た優れたものであることを記しておきます。21世紀に入ってから奇跡のように登場した「読めるヴィリエ・ド・リラダン」が、若い人にも面白がってもらえることを願いつつ。

 

 Pomme ポムさんのファースト・アルバム À peu près『だいたい』(2017)より、"De là-haut"「天国から」。

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De là-haut, je vous vois si petits

Tout là-haut, ma peine s’évanouit

Tout là-haut, des visions inouïes

Du soleil qui mange la pluie

("De là-haut")

 

天国から、あなたたちは小さく見える

はるか天国で、私の痛みは消えてゆく

はるか天国で、驚くような光景

太陽の光が雨を食べている

(「天国から」)

「対訳で楽しむモーパッサンの短編」第5回/ポム「逃走中」

『ふらんす』2019年2月号表紙

 『ふらんす』2月号に、「対訳で楽しむモーパッサンの短編(5) 「クロシェット」①」が無事に掲載されました。これまで扱ったことのない作品を取り上げられたのが嬉しいです。コラムは「オールド・ミスと呼ばれた女性たち」、モーパッサンは生涯独身で通した女性を繰り返し描いていますが、それはどうしてでしょうか。手に取ってお読みいただけましたら嬉しいです。

 

 Pomme ポムさんは1996年生まれ。「逃走中」"En cavale" は最初に出したEPの曲。

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Et nous aussi, on a plus rien à se dire

Plus le moindre instant à s'offrir

Je ne sais même plus lire ton visage

Je n'comprends plus tes mots

On a tourné la page

On a rentré les crocs

Mais ne m'en veux pas, si je pense encore à toi

C'est que je regoûte, en silence, à cette vie-là

 

J'ai fait le tour et notre amour est en cavale

Il nous a volé une année à tous les deux

Laisse-le partir, on va pas crier au scandale

On le retrouvera peut-être quand on sera vieux 

("En cavale")

 

そして私たちも、もう言い交わすこともなく

与え合う一瞬ももうないのだから

もうあなたの顔を読むこともできないし

あなたの言葉も分からないから

ページをめくってしまったの

爪を収めてしまったのね

でも恨まないでね、まだあなたのことを思っていても

ひっそりと、あの人生をもう一度味わっているの

 

すべてを知ってしまったし、私たちの愛は逃走中

愛は私たち二人から一年の時を盗んでいった

去って行くに任せましょう、スキャンダルだと騒がないでおきましょう

きっと年を取ったら、また見つけることでしょう。

(「逃走中」)

『マッドジャーマンズ』/クリスチーヌ&ザ・クイーンズ「ダズント・マター」

『マッドジャーマンズ』表紙

 フランスではないけれど。

 ビルギット・ヴァイエ『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』、山口侑紀訳、花伝社、2017年

 この漫画を読むまでモザンビークの歴史なんて何にも知らなかったから、歴史的事実にまずは驚くばかり。

 ポルトガルの植民地だったこの国では、1964年以降、独立のための武装闘争が始まる。1975年に独立を果たし、フレリモの支配する共産主義国家になった。そして同じ共産圏同士ということで、1979年以降、東ドイツモザンビークから出稼ぎ労働者の受け入れを開始、1989年までに計約2万人が東ドイツに入国した。この間、労働者の給料は約60%が天引きされ、故国で貯金されているはずだったが、実際にはどこかへ消えてしまうことになる。

 さて、モザンビークでは76年以降内戦が勃発、92年に終結するまでの間に100万人以上の死者、多数の難民を生みだす。その一方で、1990年にドイツ統一後、ドイツでは移民に対する差別・暴力が激化し、多くの労働者たちが帰国を余儀なくされる。そしていざ帰国してみれば、故郷は様変わりしている上に、内線を経験していない者として白眼視され、故国においても差別を受けることになる。それが「マッドジャーマンズ」と呼ばれる人たちであり、彼らは、二重の意味で故国を喪失した者たちだと言える。

 本書は、ふとした縁から彼らの存在を知った著者が、何人へもの聞き取りと資料収集の上で、彼らの経験を架空の3人の人物の人生にまとめ上げた物語である。全体は3部からなり、男性2人、女性1人が自らの過去を回想する形になっているが、3人はお互いに関係を持っているので、順を追っていくなかで、最初は分からなかった話の全体が見えてくるという、非常によく練られた構成になっている。

 最初の人物ジョゼは内気な青年で、東ドイツで熱心に勉強し、将来への希望を抱くが、やがて夢破れて帰国し、寂しい余生を過ごすことになる。2人目のバジリオは開放的で、東ドイツでは多くの女性と付き合って楽しむが、仕事は厳しく、統一後は彼も帰国し、故国で失われた積立金の返還を求める運動を続けている。3人目のアナベラは、内戦で故国の家族を失うが、ドイツの地で勉学に励み、統一後に医師の職に就くことができる。その意味で彼女は、先の二人に比べれば「成功者」と呼べるのだろうが、しかし本作の結末は決してハッピー・エンドではない。ドイツで暮らしつづける彼女であっても、ドイツは故国にはなりえず、彼女もまた故郷を失った者としてありつづけるしかない。著者は、多くの移民が抱えるであろう、そのような「現実」から目を逸らさずに、「故郷とは何か」という問いを抱きつづけるのである。

 本文はカーキ色を使った2色であるが、この渋い色合いが内容とよく合っている。随所に挟まれるアフリカの民芸品を思わせる絵がとくに印象深く、芸術性を高めている。また、パンフレットやチラシなどの当時の資料がたくさん描かれており、それが物語にリアリティーと記録としての価値を付与していることも見逃せない点だろう。本書は、丹念な取材と、手を抜かない堅実な仕事と、歴史に翻弄された人々の生きざまに向ける真摯かつ優しい眼差しとから出来上がった、たいへん得難い貴重な作品である。

 このような人生もある、ということをしみじみと思わされる『マッドジャーマンズ』。決して明るいとは言えない内容ではあるけれど、一読、その印象は深く胸に残るに違いない。

 

 クリスことクリスチーヌ&ザ・クイーンズ Christine & The Queens のアルバム Chris のCDは、仏語版と英語版の2枚組み。仏語版の「ダズント・マター(太陽を盗む者)」"Doesn't matter (voleur de soleil)"。ルフランは英語のみ。

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It doesn’t matter, does it

If I know any exit

If I believe in god and if god does exist

("Doesn't matter (voleur de soleil)")