えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

アルーマ

Allouma, 1889
思うところあっての選択。理由は後に述べる。
エコー・ド・パリ2月10日、および15日。フォユトンらしいので
気合いの入った「小説」として掲載されたようだ。短編集『左手』に所収。
簡単なようでそうでもないようで、なかなかむずかしい作品。
1881年および1888年モーパッサンアルジェリアに旅行していて、
その思い出は旅行記およびいくつかの短編にも描かれている。「マルロッカ」
しかり、「一夜」もまた。
印象が混ざって、なんとなくアラブ系と思っていたけれど、
マルロッカのほうはスペイン系移民と書かれていた。そうだったのか。アルーマの
ほうはもっとよく分からなくて、アラブと黒人の混血らしいけれど、肌は白いとも言われ
実のところは全然よく分からないように書かれている。とりあえず「アラブ」であるということ
が重要であるらしい。というか「アラブ」は西洋人の理解しえない「謎」である、といテーズが
アルーマの造形にもくっきり反映している。

おそらく、力によって征服された民族が、征服者による現実の支配、道徳的な影響、執拗で、それでいて無意味な調査からこれほど完全に逃れていることはないでしょう。
 さて、理解を超えた自然が民族どうしの間に閉ざすこの越えられない秘密の障壁が、このアラブの娘と私の間に、自らの体を差し出し、明け渡し、私の愛撫に提供した女と、それを所有した私との間に立ちふさがるのを、突然に、今まで感じたこともないほどに感じたのです。(2巻1104ページ)


同じように、召使のモハメッドもまた語り手の理解を超えた存在であって、
彼とアルーマの関係も最後までよく分からない。とにかくなんだかよく分からない
けれど、南国の女性は奔放で官能的で、そもそも女性というものは揃って男性にとっての永遠の
謎である、というお決まりのところへ行き着くのではある。北と南では「愛し方」が違う、
というのが「マルロッカ」の出だしでもあった。
マルロッカもアルーマもその官能性をひっくるめて「動物的」とされるのは特徴的、
というか典型的な「西洋人の視線」というものであるのだろう。未開=野性という図式。
異文化(アラブ世界と同時に女性性)を徹底的に「理解を超えたもの」とするのもまた
典型的な「白人男性の視線」というものである。
ていう風に述べてゆくと、こういう作品を21世紀に素朴に読むのはなかなかむつかしい
ということは第一にある。しかしそういうことを私が今さらのように言い立てることに
あまり意味があるとも思えない。モーパッサンだって時代の人だった。
そんなことは当たり前すぎる。
どうにか違った風にして、これらの作品を読み直すことができないものだろうか
と思ってみるのだけれど、今はうまく答えられそうもない。
ただ、フランスが国をあげて植民地獲得に乗り出してゆく時代のさなかに、自ら現地に
赴き、自身の目で観察し、そして自分の判断を下したモーパッサンは、国家というもの
に距離を置き、批判的に眺めることをやめなかった人である。その事実は確かにある。
レアリスト・モーパッサンには「平等」など内容空疎な御託でしかなかった、
ということを加えておいてもよいと思う。
とりあえず、今はそれだけ。
冒頭の情景描写はいつものように巧みで魅力的であり、モーパッサンの作品では
いつでもそれが重要な読みどころであることを、しみじみ思った点を
忘れないように記しておこう。