Le Père, 1883
同名題2作中、ジル・ブラース11月20日、1885年『昼夜物語』所収のほう。
フランソワ・テシエは毎日顔を合わせるうちに一人の娘に恋におちる。
初のデート、何もしないと誓いながら、一時の激情にかられて二人は結ばれる。
付き合うこと三か月、そろそろ飽きかけた頃、相手が妊娠したのを知って逃げ出してしまう。
それから十年。年を取り、モノトーンな生活に疲れた彼は、公園で偶然に昔の彼女
を見つける。二人の子どもの内の年長の男の子は、自分の子どもであるに違いない。
思い切って彼女に声をかけると、彼女は驚いて逃げ出し、その後公園にも出て来ない。
何度手紙を出しても返事もない。なんとかして一度、自分の子どもを抱いてみたい、
と思いつめ、思い余ったフランソワ・テシエは・・・。
という感じ。有名な作品と思うが、新潮文庫にも入っていない模様で残念。
短編集『メゾン・テリエ』の頃には一つの眼目であったところの、
春における欲望の目覚めという主題は、ここでは前段階に過ぎず、
焦点は「その後」に当てられている。そこに確かに、作者の変化を
認めることができるだろう。そして「父親」また「父なし子」の主題は
この頃から繰り返しモーパッサンの作品に現れるようになる。
注でフォレスチエが示唆し、最近のノエル・ベナムーの研究が強調するように、
この頃に、モーパッサンには一人の私生児が生まれている。母親の名は
ジョゼフィーヌ・リッツェルマン。ベナムー氏はモーパッサンには彼女と結婚
する意志があったと推測しているが、ユダヤ系アルザス出身(当時はプロイセン領、
リッツェルマンの名もドイツ系)の女性との結婚を、厳格な母ロールが許容する
はずはなかった。モーパッサンはジョゼフィーヌに経済的援助を与えつつ、たびたび
母子を訪れていた。二人の関係はその後も続き、のちにも二人の子が生まれている。
というのが最近の研究が示す真のモーパッサン像であって、浮気で好色な一徹独身男
という従来のイメージには疑問がもたらされている。
細かいことはおいておいて、要するに「私生児」というテーマは作者自身にとって重要で、
逃れることのできないオブセッションであっただろうことは、ほぼ間違いないところである。
ところで、モーパッサンは「父性愛」を「本能」のうちに含めていたように思われる。
年老いた独身男性の愛のないみじめな孤独に、彼はひどく苦しんでいた。彼は残酷な拷問に苦しみ、父親としての愛情に引き裂かれていたが、その愛は後悔と、欲望と、嫉妬と、自然が生物の体内に宿す己の小さきものを愛したいというあの欲求から成っていた。(1巻1077ページ)
それはなかば生理的な「欲求」であるがために一層抑えがたく、また逃れ難い。
モーパッサンにおいては愛情は常にそのように根源的?なレベルで捉えられていると
言っていいと思う。人間を「単純」に描きすぎている、という批判がそこから生まれる
ことはありうる。だがしかし、要するに「理屈もへったくれもない」衝動であるからこそ、
切実であり、また、読む者の感覚にダイレクトに訴えかける、ということが可能になっている
のではないだろうか。
さて、テシエ氏は今の夫に手紙を書き面会を求め、子どもに会わせてほしいと頼む。
その時、フランソワは子供を腕に抱き、顔中、目の上に、頬の上に、唇に、髪の毛にと狂ったように接吻した。
子供はこの口づけの霰に怯え、避けようとし、頭を回し、小さな手でこの男性のむさぼるような唇を押しやった。
だがフランソワ・テシエは、突然に子供を地面に下ろした。彼は叫んだ。
「さようなら! さようなら!」
そして彼は泥棒のように逃げだした。(1079ページ)
"Et il s'enfuit comme un voleur."
という一文がたまりません。初読以来忘れられないものである。
彼は別に何も盗んではいないはずなのだけれど、しかしあたかも何かを盗んだかのごとくに
逃げ出すのである。これまた、なかなか含蓄が深いと思われるのだけれど、
いかがなものだろう。