『エラクリウス』が「宗教と哲学」をめぐる問題であるならば、
『ブヴァール』はともかく、こちらを忘れるわけにはいかない。
ので苦手な本書を翻訳で取り急ぎ読み返す。
フローベール『聖アントワヌの誘惑』渡辺一夫訳、岩波文庫、1997年(5刷)
「誘惑」の最初は物質的なもので、シバの女王がそれを代表する。
こちらを退けるのは、そんなに難しいことではなかった。
そこで悪魔はイラリヨンというアントワーヌの弟子に化身し、
あるとあらゆる異端の宗主に始まり、ありとあらゆる異教の神々の幻影を提示し、
最後には自らアントワーヌを宇宙に連れ出し、彼の信仰を挫こうとするのである。
最後の第七章では、ありとあらゆる化物が登場した後、なんだかよく分からない
「生命の誕生」を目にしたアントワーヌは、「物質になりたいのだ!」と叫ぶ。
で夜明けの太陽にキリストの顔が浮かぶ、というところで話は終わるのだけれど、
削られた草稿にはもっと悲観的な結末が書かれていた。いわく、
「恐ろしいことだ! ああ神よ、わたくしは何も見なかったのではないでしょうか? あとに何が残るのでしょうか?」
確かに、こちらのほうが話はよく分かるのである。
とにかくもうありとあらゆる総ざらえをしないと気が済まないところは、なんというかゾラによく似ている。
全体性への志向というのは、確かに19世紀的思考なのである。
異端と異教とを次から次にと提示することによって、アントワーヌの信仰はどんどん揺さぶられる。
お前の信じる「神」が本当であるという保証はどこにあるのだ
ということを悪魔さんは執拗に問い詰めるわけである。実に意地が悪いというべきだ。
しかし信仰を挫くという目的のためには、これが最も有効な手段であるのかもしれない。
宗教に対するこういう批判的な思想というのはこれも実に19世紀的なものであり、
ルナンとテーヌがこの作品を褒めたというのは、出来すぎたような当り前のような話だけれど
なんか「ずれてる」だろうという気もしないではない。
人は自分の見たいものだけを見るものだ。
それはそうと、フロベールの想像力はひたすら嗜虐的で暴力的なものを嗜好する。実にもう
禍々しいイメージの横溢である。デカダンだ。バロックかもしれない。
フランスでもフロベールといえばまず『ボヴァリー夫人』と『感情教育』であるのは変わらないらしい。
この二作がなければ、『サランボー』と『アントワーヌ』だけの作家だったら、なるほど
とことんマイナーな作家に留まったのかもしれない。しかし後者のフロベールをして
ロマンチスムの残滓を見てとるだけでは、フロベールを分かったことにはならないし、
モーパッサンが述べている通り、『ブヴァール』はアントワーヌを
あらゆる人間の知の領域に拡大させたものに他なるまい。フロベールがまさにフロベールたる
所以は、『アントワーヌ』の中にこそある。
レアリスムなんか犬にでも喰わせとけ。ということだね。