えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

リアリズムは本音の世界

本業に疲れたのでおしゃべりを。
言うまでもなく、リアリズムとは本音の世界であります、ということについて。
現実を、あるいは真実を描け、という主張は、世の中は必ずしもそういうところではない
という認識があって初めて成立します。「現実」を覆い隠すものとは何か。
それは虚偽であり偽善であり、あるいは道徳であり、あるいはポエジーとも呼ばれたりします。
一番分かりやすいのはあれです。映画の検閲とぼかしというのね。
みんな知ってることをどうして隠したりするのでしょう。何のために? 誰のために?
『悪の花』を訴えたピナール判事は、モーパッサンにとって偽善の代名詞的存在でした。
だから(?)リアリズム文学は虚飾を暴きます。上っ面をはがした人間が見せるものとは何か。
それは欲望、虚栄、欺瞞、等々というものになるでしょう。
世の中には高潔な人間もいるのである。という批判は古来、リアリズム批判の常套ですが、
そういう主張の裏にはえてして「私は高潔だ」という主張がどうも透けて見えてしまいます。
「私は正しい」と誰よりも主張するのは、古来より詐欺師と相場が決まっているのでもあります。


というのはまあ余談で。
かくも身も蓋もない19世紀リアリズム文学が我々に教えてくれるところに従えば、
女性の価値とは、美貌と若さと財産によって決まった、と申し上げても過言ではありません。
あくまで19世紀のお話です。一目でお分かりのように、三つともそろって男性にとっての
価値であります。当時の法律を鑑みれば、妻とは夫の「財産」みたいなものだった、
というかそのものだったと申し上げるべきかもしれません。自分の財産を自由に処分できない、
離婚はできない、参政権なんてもっての他という時代のお話です。
これほど「本音」のあからさまな話もそうそうない。
が、しかし要するにこれは男性の側の本音の話でしかありません。
女性がどう生きるかとか、何に価値を見出すか、というのは別の話です。ただ彼女達が自己を主張する
時にはいつでも、男性支配の価値観と社会に抵抗せざるをえなかった、というのは事実です。
本音で語るモーパッサンの世界にあっては、男性と女性の間には越えがたい、避けがたい隔絶が
発生するのはいたしかたないのかもしれない。永遠の相互不理解がそこには存在するようです。


さて、以上はすべて19世紀フランスの、それもモーパッサンが見たところの社会と人間の模様です。
それが現代の我々の社会において、なおどれだけの妥当性と普遍性をもっているのかは、
読者各人の意見によるよりありません。なにより、女性の社会的ありようは大変に大きく変わりました。
しかしながらそう簡単に風化しないところにこそ、本音を語るリアリズムの真髄があるのでは
ないだろうか、そういう気もします。真実を告げ知らせると謳うリアリズム文学は、一面でなかなかどうして
教育的な意図を持っているのでもあります。


というわけで似非せんせい風に記してみました。