えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ココ、ココ、冷たいココはいかが!

« Coco, coco, coco frais ! », 1878
『モザイク』誌、9月14日。コナール版『脂肪の塊』初収録。
ココヤシジュース(と思うんだけど注によると水とタチアオイの混ぜもの?)売りは19世紀の風俗で、
モーパッサンの頃はもう廃れ気味だったらしい。
語り手がおじのオリヴィエの臨終に立ち会った際、ココ売りの声が聞こえ、おじは笑みを浮かべて亡くなる。
遺書の中に甥宛ての項があって、ココ売りを見つけて100フランやってくれとあり、別に回想録が残されていた。
その回想を一字一句変えずに写したものが以下である、として回想の語りが始まる。
その内容は人生の節目節目にココ売りとの出会いがあったというもの。
誕生、8歳の時のけが、16歳の時の最初の狩りの大失敗、25歳、妻となる女性との出会いの時にもココ売り
と出会った。そして革命後、知事任命のための謁見を頼んで出かけた日にも
ココ売りの声で驚かされ、ゴミの山に転んでチャンスを不意にしてしまった。
語り手は翌日、シャンゼリゼで見かけた哀れな老人のココ売りに100フランを恵んだという。


なんともへんてこりんなお話であって、一旗あげてやろうと意気込む青年がこんなの書いてて
どうすんだ、という気にならなくもない。興味深いのはおじの言葉の始まりの部分、
人は彗星、閏年、金曜日、13の数といった迷信を信じているがそれには根拠があると語るくだり。

私はものや人間のもたらす人知を超えた影響というものは信じない。けれども巧みに調節された偶然というものを信じている。彗星が我々の空を訪れる時、偶然が重要な出来事を起こさせるということは確かなのだ。それが閏年の年に事件をもたらすのも、ある種の著しい不幸が金曜に起こったり、13の数と一致するのも、ある種の人物に出会うことが、ある種の事柄の繰り返しと一致するといったことも確かなことだ。そこから迷信が生まれる。それは不完全で表面的な観察によって作られるもので、偶然の一致に原因を認め、それより先を探究することがないのだ。(1巻71ページ)

ここでも偶然という名の宿命が顔を覗かせている。超越的な存在を認めないということと、しかし個人の意思が
全てだとは考えられないということとの挟間にあって、モーパッサンの見る人間の姿は「なんだかわからない何か」
の存在に脅かされることになる。その何だか分からない何かは、あらゆる形をとって彼の作品の中に現れて
くるわけで、オルラも多分その表象の一つでしかない。そういうのの根は深く、なんだか分からないものの
出現の最初期の例が、実はこのココ売りということになる。のかもしれない。
もちろん「宿命」というものをココ売りという卑近なものに重ねることで作者は滑稽さを主眼において
いるのではあるけれども。


「剥製の手」「エラクリウス」「水の上」にこの「冷たいココ」と、
75年から78年頃までの散文家モーパッサンには確かに「怪奇趣味」が窺われる。ただ
それをしてホフマンとポーの影響、という常套句がどこまで妥当なのかはよく
分からない。「変なもの」の方が題材として書きやすかったんじゃないかということと、
ごりごりレアリスムでブルジョア家庭や農民を題材にすることを、なんか意識的に
避けているような気がする、ということ。ある意味「腰が引けている」ようにも感じられる。
加えて「ラレ中尉の結婚」「聖水授与者」「シモンのパパ」で、70年代の小説は全て。
75年頃モーパッサンはボート漕ぎにまつわる幾つかの物語を書きたいとか、
「小市民の大いなる悲惨」という作品集を書くつもりで、幾つかアイデアがある
と報告しているけれど、いずれも当時は実現しなかった。前者は「水の上」、
後者は「聖水授与者」「シモンのパパ」なんかに実を結んだといえようか。
もっとも「パリのブルジョアの日曜日」連作10編、そして「ポールの恋人」を
含む最初の短編集『メゾン・テリエ』にこそ成果を見るべきだろう。
その過程において「怪奇趣味」はひとまず影をひそめることになる。ということがある。


というわけで、70年代の小説は何だったか、が現今の課題であるわけです。