えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

準備準備

さてにわか勉強のオリンピックも本番を迎えつつ、
その後読んだ本。
清水諭 編、『オリンピック・スタディーズ 複数の経験・複数の政治』、せりか書房、2004年
オリンピックを個別的に社会学するとはこういうことなのだろうという
論文集。なるほどと思うこと多きながら、自分はやっぱり社会学向きではないなあ
ということを感じたりしつつ。
谷口源太郎、『日の丸とオリンピック』、文藝春秋、1997年
第三章「長野オリンピック罪と罰」のために書かれたような本ながら、
日本のスポーツ史の批判的検討である第一章「オリンピック至上主義の破綻」も
参考になる。いやさむつかしい問題が、いろいろとある。
オリンピックのように現に今もあり続けるものを語る際には、
語る私のオリンピックに対する立場を、恐らくは中立であると言うことはできない。
しかしながら、目下の私はまだ、あるいは常に、どちらかに明確に立つことが
できない、と自分では思っているあたり、迷いもあり躊躇いもあり。
いや違うか。
オリンピックの「本質」を求めてはいけないので、オリンピックなるものに
現にかかわるたくさんの人それぞれの立場があり利害があり、
それぞれの人にとってそれぞれの「オリンピック」がある。
そういうことであり、それだけのことではある。
ならば私がオリンピックをどう見るかではなく、オリンピックは私にとって
何であるかが問題、ということになろうか。
てなことをぐだぐだ考えつつ。自分の健闘を自分で祈る。


ところで、モーパッサンもあと3年生きてたら第1回アテネ大会を
知ることもでき、あと7年生きてれば、万博にあわせて第2回
パリ大会も見ることができたかもしれない。
モーパッサンがオリンピックを見ていたら?
素直に感動するような人ではなかっただろうし、滑稽とか哀れとか
思ったり、厭味の一つも吐いたかもしれない。
彼自身はスポーツマンだったしボートを漕ぎヨットを操ったけれど、
いや、はたしてどうだったかな。
というような空想をもってして私が問いたいのは、
オリンピックを生み出したメンタリティは純粋に19世紀的なもので
あったのか、あるいは20世紀を先どるような先見性がクーベルタン
(1863年生まれ、モーパッサンより13年下)にあったということなのか
てなことを、これまたぐだぐだ思ってみたりしつつ。がんばれ。