えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

シモンのパパ

Le Papa de Simon, 1879
「レフォルム・ポリティック・エ・リテレール」(政治文芸改革)誌、12月1日。
1881年『メゾン・テリエ』に所収。
「リヨン・レピュブリカン」(共和派リヨン)紙、1880年6月13日、
「ランテルヌ」1889年3月17日付録、Ripの挿絵つき、
「プチ・パリジャン」1889年6月2日付録、
「ラントランシジャン・イリュストレ」1890年9月25日に再録。
 何故か知らねど邦訳の多い作品。短編集編む際に、ハッピーエンドのものも入れておきたいという心理が働くからかとも思う。実際のところは、モーパッサンの作品ではたいへん例外的であり、いわゆる「らしくない」作品。
 とまれ、時系列的に読んでいくと、作者の技量がぐんとうまくなっているのを感じさせるのがこの作品だ。私が感心するのは、冒頭、悪ガキどもに囲まれるとこと、その後、一人川岸にたたずむところの、シモン少年の心理の変化。後者の悲しみと幸福感とが入れ替わり混ざりあうところは、子どもの心理「らしさ」がよく描けていると思う。文もこなれているが、自然描写の入れ方と、自然が喚起する感情のあり方が、後のモーパッサンを思わせるに十分だ。
 一方で、いじめられても誇り高い少年、一度は過ちを犯したが、今は貞淑で勤勉な女性、それに加えて力持ちで勤勉で誠実な鍛冶屋の三人の人物、二人が結ばれて終わる幸福な結末は、ある種「おとぎ話」的な類型に留まる点において、この時期の他の作品同様、まだ「短編作家モーパッサン」が準備段階にあることをはっきりと語っている。彼はまだ、自分のフォルムを見出してはいないし、新聞雑誌に売り込む文学青年は、「レフォルム」が掲げる共和主義の理念、言いかえれば勤勉誠実を尊ぶブルジョワ道徳そのものを実質的に称揚するような、すこぶる道徳的な物語を執筆して、ようやく掲載されるのではあるが、僅少の支払い50フランを得るのにさえ一苦労しなければならない。(もっともモーパッサンは『メゾン・テリエ』にこれを収録するので、彼自身がその点を批難していたわけでは必ずしもない。)
 モーパッサンがほとんど描かなかった「労働者」がここに登場するのは、その点で筋が通っているのではあり、この作品をして作者が労働者階級に無関心でなかったことの証拠とするには弱いだろうと私は思う。この鍛冶屋は、どう見ても類型以上のものには描かれていない。たしかに彼はプロレタリアをまったく知らない訳ではなかったが、それを社会問題として文学に取り上げること、文学を政治の道具に利用することを彼は拒否したし、真の文学が労働者に理解されることを期待してはいなかった。いずれそういう時代も来るかもしれない。でも今はまだだ。
 つまり、モーパッサンは労働者の「ため」に書かなかった。だから、彼の作品には彼らが登場しない。筋はそれだけのことだ。そういう事実が、作家を批判するひとつの理由になった時代もあったのだよね。
 目下の私の関心はそこにはなく、この作品が「父なし子」が父を新たに手に入れる話であり、一方に「聖水授与者」という話があって、これは行方不明の子どもを十数年探した後、偶然の再会を果たすことになる父親の物語である、ということだ。
 この二編が1870年代のモーパッサンの手によって書かれたことの意味は何か。
 答えはそんなにむつかしくはない。
 モーパッサンの伝記をひもとけば、そこに父親の影は見事なまでに薄い。その名をギュスターヴ・ド・モーパッサン。ギイ少年10歳の時に両親は調停の上で別居。父親は単身パリに出るが、財産を失ってしがない勤め人の生涯を送る。彼はアマチュア画家で、主に地方のサロンにたびたび出品していることなどは、近年マルロ・ジョンストンが詳しい調査で明らかにしている。
 モーパッサンと母ロールとの結びつきは大変強いことは明らかで、その影にあって父親の存在はほとんど忘れ去られているといってもいい。あげくのはてに、モーパッサンの真の父親は、奇しくも同じ名のギュスターヴ・フロベールでないか、と囁かれる始末で、いろんな人がいろんなことを言って、今でも言う人もいる。
 とはいえ70年代、パリに出たモーパッサンは父親と二軒どなりのアパルトマンに住み、二人の交流がなかったわけではない。ロール宛て書簡からかすかに窺われるのは、貧乏でケチで意志薄弱な駄目な父親に対する、20代のモーパッサンの諦めとも失望ともいえるような感情のありようである。
 父とか母とか子とか言い出すと、話はいくらでも広げられるのではあるけれど、そんなに広げる余裕も力量も私にはない。精神分析ちゃんと勉強しときゃよかったなとか思ってもしかたない。
 ただ、理論的にいってすこぶる明解に見えるのは、「聖水授与者」「シモンのパパ」をモーパッサンに書かせたその心的要因である。「捨て子」と「私生児」を小説の起源に見たマルト・ロベールを引いてくるのが適切かどうかは分からないが、あてはめようと思えばあてはめられる。
 つまり、私は同じことを繰り返しているだけだ。
 1870年代の「短編小説家モーパッサン」は、題材をもっぱら自己の内面から汲み上げることに努めていた。その時に彼の精神の表面に浮上してきたものとは、すなわち未知なるものに対する恐怖、狂気に対する魅惑と脅威、戦争という体験、そして「理想の父」に対する願望だった。
 これらのファンタスムと呼ぶべき内的テーマを、モーパッサンは既成の「物語」という枠組みの中においてなんとか表現し、昇華しようと努めていた。(「ラレ中尉の結婚」が普仏戦争を舞台にしながら見事な寓話として完結するのを見よ。)
 おそらく、そのことが、作家モーパッサンが真に誕生するために必要不可欠なプロセスだったのだ、というのが、1870年代小説家モーパッサンについての私の一つの結論である。
 だが、それだけでは足りなかった。そこには「小説家」を生み出す何かが欠けていた。
 問題は二点にまとめることができるはずだ。
 ひとつは、内面の問題であり、モーパッサンがこの時期本質的に「詩人」であった証拠を私はそこに認めたいとも思うのだけれど、彼が自己の内側にしか目を向けられていなかったということである。
 もうひとつは、彼が自分の物語を描きだす形式を、まだ見い出せていなかったという事実。
 この二つの課題を突破することができた初の作品、それこそが「脂肪の塊」であったということを、私は早く言いたいのである。
 でも、まだ「父と子」の問題どまりなのだ。ああ、もどかしいね。