えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

口髭・宝石

モーパッサン、『口髭・宝石』、木村庄三郎 訳、岩波文庫、2009年(9刷)
初版は1954年。
なんでも「リクエスト復刊」だそうなので、リクエストされた方がおられたのでしょう。
オールド・ファンていうのでしょうか。めでたいことでごじゃった。
なのでここはHPにもページ作ってあれこれいいたいのであるが、
どうにも時間が取れなくてつらいのお。
とりあえずですね、有無を言わさず冒頭の「告白」を読んでいただきたい。
たった11ページで腰がくだけること請け合いです。あなたの道徳観も
一発でへなへなになる!!
と思うんですが、どうでしょうか。


ノルマンディーの農民は吝嗇である、というのは東北の人はどうちゃらこうちゃら
というのと同じような通念というか紋切型というか、そういうのとしてあるわけで、
これはノルマンディー農民のレアリスムの描写、というよりもむしろある種の
戯画とみなしたほうがいいかもしれない。もっとも、そういう通念がまかり通っている
時代と場所においては、うーむいかにもノルマンとはかようなものである、という風に
人は思うわけで、モーパッサンの「レアリスム」というか「写実」を、人はしばしば
素朴に評価したし、今もされたりもするわけである。
でも今日の異国の我々が読むときには、かつてのノルマンディーの農民はこんなんだった
という情報収集として読むわけでなく、その必要もないわけである、から
もっと違った風に読めるし、読むべきであろう。
その際には、そういう「レアリスム」というような御託はなくても構わない。
だって今時こんな人達はさすがにいそうにないからね。
それにもかかわらずこの11ページの作品が今も力を持つとすれば、
それは「そういう考え方」もこの世に存在しうる、というその可能性の発見においてであり、
そういう想像力を養うことができる、というところにあると思いたい。
もちろん現実問題としては、ことはこんな簡単に済むはずがあろうわけもない。
だけれども想像の領域においてでも、「私生児生まれるぐらいがなんぼのもんじゃい。
それまでにいくらかでも銭稼げればもっけの幸い」というような考え方が「あり」
であると考えてみることは、自分の思考をほんの幾らかでも柔軟にするだろう。
そのことがひいては人生を生きていくのをわずかながらも楽にしてくれるのではないか
と私は思うのである。
別に貞操なんか捨ててしまいなさいと勧めているのではもちろんない。そうではないけれど、
「かくあらねばならない」という「常識」は、それが常識であればあるだけ普段の意識には
のぼりにくい、ということが問題であり、モーパッサンの短編の多くが一読して腰くだけそうに
なるその時に、実は突かれているのは各人それぞれが抱く「常識」である、と思う。
常識を疑えというのは今時の広告みたいでなんだけれども、疑えと言われて疑えるような
お手軽なもんは常識とは呼ばないのである。
私は何度でも繰り返すけれど、「不道徳」というのは「道徳」とは何かを問い返す最高にして
絶対の手段なのであり、「道徳」なるものを自明にした言説は教条的であるしかなく、
そんなものは多くの人には馬耳東風というものでしょう。不道徳だねえ、で済ます一歩手前において
考えてみることがありはしませんか、と問いかけるのがモーパッサンの短編だと、
私は思う。
だから今時のキャッチーな広告をひねり出すなら、ずばりこうである。


モーパッサンを読んで賢くなろう。


普段モーパッサンを読んでいる私が果たして「賢い」かどうかは
この際、不問に付さしていただくとしましてね。
以上、私なりの宣伝文句のつもりでした。売れてけろ。