えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

虎の牙

モーリス・ルブラン、『虎の牙』、井上勇 訳、創元推理文庫、2004年(24版)
これまた前半はドン・ルイス・ペレンンナことリュパン危機一髪で、後半がリュパン大活躍。
なにに驚くって、第一次大戦中にリュパンはモロッコの外人部隊に入隊し、
その後、ベルベル族の集団の首領に収まる。それからが凄い。

外人部隊では、リュパンは一兵卒に過ぎませんでした。モロッコの南部では、彼は将軍だった。そこで初めて、アルセーヌ・リュパンはその本領を発揮したのです。そして、私は自慢でなく申し上げますが、これは私自身にも思いがけないことでした。武勲として、伝説のアキレウスもこれ以上のことはなしとげ得なかった。成果として、ハンニバルもシーザーも、これ以上のものは獲得し得なかった。十五カ月でもって、アルセーヌ・リュパンはフランスの二倍の大きさの王国を征服したことをお知りになれば、あなたもそれを納得されるでしょう。モロッコのベルベール族、傲岸不屈なツアレグ族、極南アルジェリアのアラブ族、セネガルに満ち溢れている二グロ族、大西洋岸に住んでいるモール族、太陽の炎、地獄を制圧して、リュパンはサハラの半ばと、旧モリタニアと呼んで然るべき地方の全部を征服したのです。(478頁)

なんとまあ、そうであったか。

 こうして、私は心中に次第に立ちはだかっていた壮大な、遥かな夢から、今日の現実を築きあげたのです。フランスは世界を救いましたが、私はフランスを救いました。
 フランスは、そのヒロイズムの力によって、失われていた昔の地方(アルザスとロレーヌ)を回復しましたが、私は一挙にして、モロッコとセネガルを結びつけました。現在ではアフリカ最大のフランスが存在しています。私のおかげで、この堅固な、一体となったブロックができたのです。何百万キロ平方の土地と、問題とするに足りない二、三の飛び地を除いてチュニスからコンゴに至る何千キロにものぼる切れ間のない海岸線。総理、これが私の成し遂げた仕事です。(480頁)

かくしてリュパンは「モリタニア皇帝アルセーヌ一世」になった。
そして、一人の愛する女性を救うのと交換に、リュパンモーリタニア
フランスに提供するのである。そのヒロイズムや、これいかに。


実際に、モーリタニア1920年にフランスの植民地になっており、
この作品が世に出たのはその翌年である。アクチュアリティの取り込みぶりにも感心するが、
スケールの大きさには度肝を抜かれる。もちろん、
ひとたびサイードを読んだ人間にとっては笑っていられるような話ではなくて、
ヨーロッパ人を殺すことを忌み嫌うリュパンにとってもアフリカの原住民を
殺すことは何ほどもやましいことでなく、侵略と征服は栄光でしかないのである。
考えてみれば、ベル・エポックの夢と(秘かな)欲望の表象に他ならぬ
アルセーヌ・リュパンであってみれば、その彼がひとたびフランスを出た時に何を
するかは、既にして決まっていたようなものではある。
それは、たぶん、愛国心のレベルの問題ではあるまい、と私は思う。
リュパンとは第三共和制の申し子であり、両者の関係は分かち難いまでに結びついているのであれば、
それはつまり、「共犯」と言ってもかわりない。
恐らくは世紀末のアナーキスムの空気のもとに生まれ出たであろうアルセーヌ・リュパン
15年後にはフランス共和国の影の英雄として君臨するに至る、ということ。
その過程に、今の私はけっこう興味を惹かれるものがある。
もう一つ注目すべき点は、皇帝アルセーヌ1世は、まさしくナポレン1世と肩を並べる
存在にまでなるということにある。
それまでにもリュパンが自らをナポレオンに比する発言はあったと思うけれど、
それがここで実現している。
(そのことが過去エピソードという形でごく簡単に触れられるに留まる、のは何故だろうか。)
19世紀を通してフランスを魅了してきたナポレン神話の最後にして壮大な結実が
実はアルセーヌ・リュパンにあったということは、もっと注目されてよかろう。
ユゴーだってスタンダールだってバルザックだって、言ってみれば
ナポレオンのなり損ないしか描きはしなかった。描けなかったし、描かなかった。
ナポレオン3世はお粗末なイミテーションに過ぎなかった。
自然主義の時代には、現実においても文学の世界においても、もはや「英雄」は
存在しえない、というのが共通理解というものではなかったろうか。
それがブルジョアの時代というものではなかったのか。
私が知りたいのは、ルブランをして、リュパンをそこまでの人物に仕立て上げさせるに
至った、その動因はいったい何だったのか、ということだ。
英雄願望は大衆の内にこそ育まれるものだとしても、なぜにルブランこそがその夢を
かくも鮮やかに掬い取ることに成功したのだろう。
ルブランはいやいやながらリュパン・シリーズを書き継いだと人は言う。
本当のとこ、それってどういうことだったのよ、ということを、
私は知りたいと思う。